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ピンチをアドリブで乗り越える技 100/100(ひゃく)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


やっちまいました。

100回連載と決めていたのに、
今日はその98回目だと思っていたのに、
今朝、気がついちゃったんですね。

93回と94回が、2つずつある!

内容は違う。
番号の振り分けミスです。

となると、今日が100回なんですよ。

流石に100回目は軽く下書きがしてあって、それに向けての今日の98も、昨日の続きですでに書いてあったのに、99の内容も考えてあったのに、さあ、どうしましょうか?

ということで、昨日の続きは、長くなりますが昨日に続けて99の後編としました。

連載の最後、第100回をお届けします。

有終の美を飾りたかったのに、、、これは終えるな、ということでしょうか?

感謝してます

これまで、気分の乗らない日も、他に仕事の多い日も、時差で投稿日が錯乱する時も、なんとか日祝を除いた毎日の投稿を続け、とうとう100回に辿り着きました。

これもひとえに、Twitterなどで拡散をしてくださる方々と、晴れの日も雨の日も、温かく見守ってくださった読者の方々のご支援によるものです。

また、そもそも、
「100回書いてみよ」
と、私を焚き付けた佐渡島さんに感謝しております。

みなさん、本当にありがとうございました。

「毎日コツコツ」系の、小学校ドリルや、夏休みの宿題を真面目にやったことのない私にとってみれば、これは大変な驚きです。

ヘリコプターで、数100メートル上昇してみても、奇跡だと思います。

でも、そこで思いました。

100回目の投稿、いったい何をお話ししたらいいのか?

「己」に真正面から向き合い、問うた上での長文です。

「ピンチをアドリブで乗り越える」役には立たないかもしれません。

でも、どこかで誰かのお役に立つのならば、役者として、これほどの充足感はありません。

判断がつかない

実は少し前に、同居人がコロナになりまして、だいぶ感染力も弱まってきているという情報が出ているので、特に家を出ることはなく、家中消毒液のスプレーを持って歩き回っていました。

正直、どこまで消毒・対策をするべきか、判断がつきません。

もうだいぶ経ちましたが、発症することもなく、抗原検査もずっと良好でした。

コロナの初期段階で、ある病院のタブレットが、集団感染の原因になっているという情報もありました。

もう空気感染するほど感染力は強くなくても、同じ場所に手を触れることによる感染はあるのではないか?

そう思って、手当たり次第にシュッシュしてました。

いや、私がとった対応は、もしかしたら過剰だったかもしれない。

でも、細菌の世界は、答えの分からない未知の世界だから怖いですよね。
そんな時、どこまでするか?

恐れに、どう立ち向かうか?

と、いう話です。

納得するしかない

完全隔離をするほどではない時期であると思いつつも、自分が感染してしまうと、色々と大変なので、それを防ぐために、どこまでのことをするべきか?

その境界線が分かりません。

そこで、思いました。

役作りのためのリサーチに似てるな、と。

どこまでするのが正解かは分からないし、多分明確な答えもないんです。

免疫力や体調、もともとの体質、家の構造や、その日の気温や湿度もあるじゃないですか、きっと。

感染力が非常に強かった頃は、些細なことから感染が広がりました。

でも、今は違います。

法的な隔離もありません。

どこまでやるかは、自分の匙加減です。

自分が、どこまでやれば後悔しないか?

正しい知識をもとに、自分で取捨選択しなくてはいけません。

パンデミックは、そういうフェーズに入りました。

そこで、ただの風邪やインフルエンザで気をつけるよりも、もう少し丁寧に慎重に気をつける。

いや、違うな、自分自身が納得できる程度までは徹底的に対策をする。

それが、私が個人的に引いた線です。

人それぞれ

役作りの話に戻せば、私が『レイルウェイ 運命の旅路』を撮影していた頃、なかには台本のあらゆるページが、虹色のマーカーで色分けされており、あちらこちらに付箋が貼り付けてあって、台本の厚みが倍ぐらいになっている役者もいました。

イギリスの演劇学校の頃も、役作りに対して、図書館や関連施設に足繁く通って作り上げていく役者と、特に何も特別なことはしない役者、両方がいました。

演技の質という面では、その二人は両方とも素晴らしかったです。

観客目線から見れば、彼らは二人とも同等に素晴らしく映っていたと思います。

ここで重要なのは、特に何もしていなかった役者が、さまざまなリサーチをしていたもう一人の役者と、同じぐらいの労力をかけていたら、さらに素晴らしい演技ができていたか?

と、いう仮説です。

私は、そうは思いません。

人にはそれぞれ向き不向きがあり、それぞれに相応しい方法があります。

隣の芝生が青く見えたとしても、それと同じ青みを自分が築き上げることは不可能です。

すべては、個人の問題であり、自分に最も相応しい程度は何か、自分で判断し、自分が納得できる範囲内のことをするしかないのです。

比較できない

もちろん、これは偏った極論であって、たとえば伝統芸能の世界のように、師匠という存在がいれば、話は変わってくるでしょう。

私自身、肌でそれを感じた経験があります。

たしかに、成長過程であったり、まだ未熟な間は、第三者の目が非常に重要です。

でも、おそらくこの連載をお読みになっている方々であれば、
「自分を、信じて」
と言わせていただいて、問題ないかと思います。

喜びも、悲しみも、他人と比較できることではありません。

東日本大震災際の被災者の方々から、私はそれを学びました。

詰まるところ、自己判断しか、自分が納得できるものはないのではないでしょうか?

他人の判断に任せて、もし上手くいかなかったら、その他人を責めたくなってしまいます。

でも、この個人主義が行き過ぎると、悪い西洋的な独断主義となる、という意見も分かります。

ええかげん

すべては、バランスです。

極端な思考や、分かりやすい、安易な視点は危険だと思いませんか?

すべては混沌としていて、匙加減が難しく、明確な答えなど非情なまでになく、多様なのでしょう。

協調性と、団体行動に長けた日本の国民性は、否定するべきものではありません。

それでも、他方でそっちの方向に行き過ぎてしまうと、行き着く先はどうでしょうか?

SNS上での、陰湿な集団リンチ、流行に乗せられ本質を知らないご意見番、極端に万人への合理性と利便性を追求した商品やサービス。

それらに流されていると、ある時ふと我に返って、迷子になるのではないでしょうか?

孤独を感じると思います。

常に自分を良く見せたい、良く見られたいというのは、人類の根本的な欲求から生まれているのでしょう。

でも、それは進化でも、ましてや「深化」でもなく、「螺旋」をぐるぐると、あがき回って上下しているように感じます。

私自身は、LA進出を目論んでいた頃に、ふと我に返り、そんな自分に対する嫌悪感を覚えました。

シゴトの仮面

以前、私は役者という職業柄、「分人論」には賛同できないというお話をしました。

「己」のない、「分人」という多人格の集合体であるという考え方では、役者としては、自己を失い、日々の生活に支障をきたす危険性があると思うからです。

「己」や、「自己」は必要です。

それなくしては、集団に流され、「己」を見失い、多人格の中の、たかが一面に向けられているだけの、断片的な批判にさえ切り刻まれてしまいます。

だいぶ昔に「シゴトの仮面」という考え方を提唱したことがあります。

職場で、何か大きな困難(ピンチ)にぶち当たってしまっても、それはあなたの、ほんの一面に関することであって、「己」にまで侵食させる必要はない、というメッセージでした。

最近では、『推しの子』が似たようなことを言っています。

八方美人や、イイ子、のような多人格ではなく、もっとポジティブな視点から、

「私たちは日々演じている」

そしてその中心には核となる「己」が存在している、と捉えることを私はお勧めします。

そして、その「己」こそが、ピンチに陥った時にその本領を発揮する、あなたの潜在的な「魅力」なのかもしれません。

本当にありがとうございました。

つづく…?

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