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ピンチをアドリブで乗り越える技 80/100(視点)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


前回と前々回に引き続き、『レイルウェイ 運命の旅路』についてのお話です。

私が撮影を続ける中で、一番印象に残っていて、かつ衝撃的だったのは、作品の中での「視点」に関することです。

映画でも舞台でもテレビドラマでも、物語というものは、だいたい主人公の視点から描かれています。

そして、芥川龍之介の羅生門に代表されるように、人の記憶というのは、受け取り記憶する側のバイアスが入るので、揺るぎない事実というのは存在しないに等しいのかもしれません。

例えば、『レイルウェイ 運命の旅路』は主人公のローマックスの記憶をもとにした物語でした。

そうなると、特に私の演じた永瀬は、回想シーンに近い部分での人物だったので、戦時中の悲惨な記憶の中核をなし、残虐性を強調された描かれ方となっていました。

同時に、実在して人物である永瀬氏の手記などを読むと、そこには彼の記憶、しかも文章として公表する前提の事柄しか書かれていません。

役者として、役の思考回路を探っていくにあたって、脚本に書かれている永瀬像だけでは、あまりにも一方的すぎて、深みがない。

だからといって、永瀬氏の手記も断片的で、バイアスの入った視点でありました。

私が作中で演じるべき永瀬像は、そのどちらでもないところにありました。

役作りをする中で、どの視点の役にするのかというのは、非常に難しい課題です。

かのメリル・ストリープは

「役者の仕事は共感することである」

と言ったと以前ご紹介しましたが、この共感する対象をどこにするのか?そこは重要です。

ピンチの話に戻しましょう。

あなたがピンチであると感じたその状況、それは果たして誰しもがピンチと感じる様なことなのでしょうか?

さらには、そこに居る人たち全員が、ピンチであると感じる状況でしょうか?

何をピンチと感じるかは、人それぞれです。

また、あなたにとってのピンチは、相手にとってのチャンスである場合もあるでしょう。

一言でピンチといっても、その内情は様々です。

ピンチに陥った時、もしその余裕があるのであれば、少し視点を変えてみるのは如何でしょうか?

思っていたほどピンチではなかった、と気がつく事もあるでしょう。

その状況に臆せず、抜け出す道筋のある人の視点もあるかもしれません。

もしくは、自分ばかりピンチに感じていても、相手はなんとも思っていないというパターンもあり得ます。というか、この状況は結構多いのではないでしょうか?

映画の話に戻れば、主人公ローマックスの記憶している永瀬は憲兵隊であり、悪虐なサディストでした。でも、実際には、というか書類上の永瀬氏は兵士ではなく、軍属にあたるただの通訳でした。

同じ言語を話し、コミュニケーションを取ることの出来る相手として、さまざまな憎悪が彼に向いたのだと思います。

そうなると、物語上はローマックスの記憶の中の永瀬を演じなくてはいけないので、残酷性を求められます。

しかし、残虐な人にも、そうならざるを得なかった事情や理由がある筈です。

そこに賛否を求めるのではなく、一人の生き方として、一種の正当性を持たせる必要があります。

その中から、残虐的な部分を見出すのは、映画の世界では、それこそ監督や編集の「役割」なのです。


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