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中島敦だけは早いうちに攻略しとけ


* 引用テキストは青空文庫から引用しました。



はいどうもー。みなさんの文豪攻略の進み具合はどんなですか? てかここ数年ね、マンガやアニメやソシャゲ等々でいろんな文豪が出荷されて流通してるけど、なんか公式とかのほうがコンテンツの消費スピード遅らせるために、文豪攻略しようとしてるユーザーを意図的に間違った導線に乗っけようとして姿勢が目に余る。特に目立つのが「中島敦」の扱い。公式側の「中島敦」の扱い見ててね、正直俺は内心ムカついてた。「中島敦」をメインに据えた展開してるくせに、ユーザーを誤解させることで「中島敦」攻略を難しくさせてコンテンツの引き延ばしをするっていう運営の方針は端的に言って間違ってると思います。

要するにこういうことですよ。「中島敦」っていったら、大抵なんか虎が月に向かって咆えてるみたいなイメージで扱って、そういう系から連想される異能を持ってたりダメージ受けすぎると第二の人格が発現するとかそういうキャラ付けになってるじゃないですか。そんなことがテンプレになってるせいで、文豪攻略するユーザーは、どうしても、「中島敦」攻略で最初に挑戦しないといけないのは『山月記』だって思い込んじゃう。

それでですよ、そんなふうに思い込んじゃったユーザーが、公式の思惑通り『山月記』に突撃して最初に出くわすのがこれですもん。


隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。


何これ漢字読めないんだけど。いや、こんなのにいきなり出くわしたユーザーからしてみれば、なんのガイドもなしにそのまま進めって言われても無理ですよ。初見殺しどころじゃない、さっぱり意味分かんないのを開幕冒頭でユーザーにぶつけておいて一切救済措置もないし、だいたいこんなのが出てくるとかチュートリアルとかでも一切触れられてない。こんなことされたら普通のユーザーはさっさと諦めて回れ右するどころか、「中島敦」は高難易度を通り過ぎてただの苦行だと思われて二度と寄りつかなくなっても不思議じゃない。何より残念なのは、苦労して『山月記』を突破したユーザーがいても、結局、道中で苦労したことしか印象に残らないから、「中島敦」の攻略は苦労の割にはドロップマズいって言われることですよ。

だけどね、もうみんな俺が何を言いたいのか予想つくと思うけど、「中島敦」だって攻略の順序をちゃんと考えれば余裕で突破できるし、攻略すればするほど、高い性能と汎用性を兼ね備えたアイテムがガンガンドロップして、「中島敦」も他の文豪の攻略もどんどん楽になるんです! いやマジな話、みんなが楽にクリアしたいんなら、俺は本気で、いろんな文豪がいる中でも真っ先に「中島敦」から攻略するっていう攻略順序をお勧めする。ただし、「中島敦」のドロップ品で強化しすぎたせいで他の文豪の攻略がヌルゲー化したとしても俺は責任とらないからそのつもりで。

んで、公式がコンテンツ消費スピードを遅らせるために用意した導線にのっかるのを拒否して『山月記』を後回しにするとして、じゃあ最初にどのルートから突破すべきか。俺が断然お勧めするのは『悟浄歎異』です。

「『ごじょうたんい』じゃなくて正しい読みは『ごじょうたんに』だよw」みたいなことを上から目線で言ってくるような先行勢とかがいても無視して、気楽に突撃して問題なし。なにしろ、『悟浄歎異は開幕からして『山月記』とは大違いだ。


 昼餉(ひるげ)ののち、師父が道ばたの松の樹の下でしばらく憩うておられる間、悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。そばで見ていた俺は思わず吹出してしまった。


え……なんだこれ?……最初に遭遇したとき、俺は完全に呆気にとられた。なんで何の前触れもなしに突然西遊記をおっぱじめてんの? あ、みんな『西遊記』は知ってるよね? 超強い孫悟空と、でぶキャラの猪八戒と、あとなんか影の薄いカッパみたいなやつでパーティー組んで三蔵法師と一緒に天竺に向かって旅する、あれのことだ。俺は親切だから、この記事の冒頭に参考画像をつけといてやった。いらすとやさんの使いやすさは異常。

話を戻すと、俺は呆気にとられつつも取り敢えず進んでったわけだけど、進めば進むほどますます呆気にとられる。「中島敦」の野郎ときたらなんと、妄想全開で勝手に『西遊記』のスピンオフ日常回やってる。それ商業出版するか普通。しかも内容ときたら、例の影の薄いカッパ(悟空も八戒も通常変換できるのに、「ごじょう」だけ通常変換だと出てこないくらい影が薄い)を主人公にして、悟空や八戒に比べて自分だけキャラが立ってないのを悩むみたいな、完全にふざけて面白がって書いてるみたいな内容なんだよ。

でね、俺もだんだんとシチュエーションが飲み込めてくるにつれて、今度は腹が立ってきた。おい中島! 文章が普通に読みやすいじゃねえか! 「隴西の李徴は博学才穎」みたいなのは何だったんだよ! ふざけてたのか? 何で普段からこういう読みやすいテキスト書かねえんだよ!? っていうふうに、かなり中島に対する怒りがこみ上げたけど、結局最後には俺も認めざるを得なかった。中島のテキストときたら、文豪のくせに全然古びてなくて、読みやすい。いや、全然古びてないっていうのは言い過ぎでやっぱりなんか古いなと感じるところもちょくちょくあるけど、それでも、すっきりシンプルで今でも全然読みやすい。それに加えて、ちょくちょく古いところよりもむしろテキストから新鮮さを感じる部分のほうがずっと印象に残る。新鮮すぎて、「中島敦」表記よりも「Atsushi Nakajima」表記のほうがちょうどいいくらいだ。

いやそれでね、『悟浄歎異』を突破した俺はこう思ったんですよ。Atushiと言えば『山月記』みたいな風潮は一体なんなのか。運営なんかが『山月記』に初心者ユーザーを誘導するどころか偉そうに「この時の作者の気持ちとして正しいものを一つ選べ」みたいなクエスト目標を押しつけてくるのは一体なんでだ? 俺は確信を持って言うけど、『悟浄歎異』を書いたときのAtsushiの気持ちっていったら、ただひたすら面白がって書いてたに決まってますよ。

そんなことを考えた俺は、Atushiをきっかけにしてその後いろいろなAtsushi以外の奴も攻略してるうちに、だんだんと理解した。世界水準の一流でかつ現代でも通用する文豪の奴らは、作品を通して自分の気持ちとか考えみたいなやつを読者に読ませようなんて全然思ってない。作品の中の登場人物に作者の考えを代弁させてペラペラ喋らせるなんてダサさの極みで、現代にもなってそんなことする作家は完全に二流で話にならない。現代の一流の奴なら、二流がやるようなことをする代わりに、視点を提供する。大抵は複数の異なった視点を。それで、異なる視点ごとに世界を切り取る断面の角度とかが変わることを通じて、世界の別な側面を提示しようとする。作者の個人的な考えやら思想みたいなものじゃなくて、まるで違って見える世界の姿そのものをね、バンと読者の前に提示してヘイお待ち! ってやるんですよ。

要するにですよ、やたらと『山月記』にユーザーを誘導するような運営なんて所詮は作者の思想とかが込められてる作品がブンガクとして優れてる作品なんだみたいな思想みたいなもんに対するコンプレックス丸出しの態度しかとれない腰抜けで自分のほうが作品を読んで作者の思想とかを理解したから思想を理解した自分は偉いみたいな調子のマウント合戦をしたいだけのクソ野郎なんで、『山月記』を通じて作者の苦悩を読み取らないとAtsushiを攻略したことにならないなんてことを言ってくる運営の回し者みたいな奴らのことは完全に無視していい。そういう奴らは、コンプレックス丸出しの結果ブンガクなんだから作者は絶対思想とかそういうものを主人公とかに代弁させてるんだって決めつけて完全に誤解してるだけですよ。実際には現代でも通用する文豪ならそんなダサい作品作りはしないってことも知らずに。ハンバート・ハンバートの中に作者本人を見いだそうとするなんて、端的に言ってナボコフに対する侮辱でしょう。

だから『悟浄歎異』だって、Atsushiがひたすら面白がって書いたものなんだから、ユーザーは単に面白がれば十分で、その結果、Atsushiが提示した視点によって『西遊記』の見方が変わったりすればいいだけなんですよ。文豪攻略は気楽に楽しむのが一番!

こんなふうに現代でも通用する一流の文豪であるAtsushiの『悟浄歎異』を普通に楽しんだユーザーは、大抵の場合、『悟浄歎異』の前日譚っていう位置づけの『悟浄出世』に気軽に突撃するんで、またしてもAtsushiのトラップに引っかかる。『悟浄出世』ときたら、またもや出だしからこれですよ。


 寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧返りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河の三字を篆字にて彫付け、表に四行の小楷字あり。


また漢字読めねえよAtsushiてめえふざけてんのかこの野郎! ってついなっちゃうけど、ここで攻略のアドバイス。Atsushiは実際のところふざけ半分でこういうトラップを仕掛けてるんで、こういうトラップに気づいたらトラップ回避して先に進むことを推奨します。Atsusiの奴ね、「馬鹿正直に高難易度トラップ解除に挑戦したユーザーを、苦労して解除してたのにショボいアイテムしか拾えなくてがっかりさせてやるぜウヒヒヒヒ」くらいの意識で毎回ワンパターンで冒頭にこの種のトラップ仕掛ける。だから、敢えてトラップ解除なんかに挑戦せずに単にスルーしたほうが絶対良い。まあ、こういうトラップ解除に挑戦して慣れとくと、この先のAtsushi攻略を進めたり他の文豪の攻略とかにも役立つけど、ドロップには期待しないほうがいい。その証拠に、『山月記』だって冒頭は例の「隴西の李徴は博学才穎」から始まるのに、最後の段落は


 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽(たちま)ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢(くさむら)に躍り入って、再びその姿を見なかった。


っていう、冒頭に比べたら随分読みやすい文章で終わるんですから。じゃあ最初の「隴西の李徴は博学才穎」は何だったんだよ、って考えると、まあ要するにふざけてたんだよなって考えるしかないんじゃない?

それで『悟浄出世』なんだけど、これも話が相当滅茶苦茶で、三蔵法師に会う前の例のカッパじみた奴が河の中で自分探しみたいなのを始めてフラフラする話……と思ってたら、なぜか古今東西のいろんな思想やら哲学やらを擬人化というか擬妖怪化したちゃらんぽらんな妖怪がワラワラ出てくるんだけど、カッパの奴はそういう妖怪に弟子入りしては「なんか気に入らねえ」みたいなことを言ってまた別の妖怪に弟子入りするみたいなのを繰り返すんで、そうやってカッパがフラフラし続ける様子が森見登美彦の腐れ大学生っぽくて妙に面白いっていう内容です。うん、やっぱりAtsushiはふざけてこれ書いてるわ。Atsushiがヘラヘラしながら執筆してる様が行間に滲み出てる。

でね、このへんまで来ればみんなももう分かったと思うんだけど、Atsushiは基本、変な話や妙な話をヘラヘラしながら書く奴なんですよ。それで、変な話や妙な話の中に、そっと控えめに別な何かを紛れ込ませるっていうのがAtsushiの定番スタイル。やっぱりAtsushiは分かってるわ。いかにも深遠そうなテーマとか思想みたいなのを偉そうに大展開してオレは文豪だぜ巨匠だぜみたいなツラしてる奴はダセえもんな。そのへんをAtsushiはちゃんと分かってるから信頼できる。

だから要するに『山月記』なんてのは本来のAtsushiスタイルから見ると、どっちかというと異色作なんで、これが代表作扱いされてんのは、単に運営が謎のごり押しをずっと続けてるからってだけなんですよ。みんなもね、少なくともAtsushi攻略に限っていえば、本当に公式を信頼するのは止めた方が良い。

というか、ここで俺は声を出して言いたいんだけど、公式が『山月記』ばっかりごり押ししてるせいで他のAtsushiの作品を埋もれさせてるっていう無視できない弊害が生じてるのが俺は完全に許せない。たとえばですよ、『山月記』はAtsushiの商業デビュー作なんだけど、実はAtsushiがデビューしたときは、『山月記』の他にもう一作を同時掲載した二作同時掲載デビューだったんですよ。この、『山月記』じゃないもう一つのデビュー作って何か、みんな知ってる? 知らないでしょ。こんなふうにね、運営が『山月記』をごり押しするせいで、二作セットで掲載されたはずのもう一つのデビュー作すら埋もれてる。ほんと運営クソとしか言いようがない。ちなみに、そのもう一つのデビュー作っていうのが『文字禍』。俺はウィキペディアで調べたから知ってるんだ。まあとにかく、この『文字禍』もチョー面白い


 文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。


また冒頭からして、どこからどう突っ込んだらいいのかも分からないAtsushi節全開で困る。「文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない」って、アッシリア人じゃなかったら聞いたことあるみたいな顔して言い切られても、俺だって文字の精霊なんて聞いたことないよ! というか何で突然アッシリアなんだよ!

そういう感じでAtsushiは読者を置いてけぼりにしてガンガン狂った話を展開して、しかもスパッと短く終わらせる。なのにチョー面白い。これがAtsushiスタイルのもう一つの特徴なんだけど、Atsushiの奴は毎度毎度、いちいち突拍子もない時代や場所を舞台にして突拍子もない話を展開する。しかも大抵、ふざけ半分でヘラヘラしながらそれをやる。たとえばこの『文字禍』なんかでも、例のゲシュタルト崩壊ってやつ、なんか漢字ドリルとかで同じ字を書き続けたらだんだん意味がある文字じゃなくて意味のない図形を書いてるような変な感覚に陥るあれ、あれに関してね、「意味のない図形が意味のある文字になるのは、文字には文字の精霊が宿ってるからだ!」っていう狂った理屈を展開する話なんですよ。しかも、人類最古の文字って言われる楔形文字を粘土板に書いてたような大昔を舞台にして。んで、そんな滅茶苦茶な話を、Atsushiはやっぱりヘラヘラしながら書いてる。だから、文字の精霊について研究するっていうシーンもこの調子。


さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰イアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰イツクスガ如シ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌した。文字を覚えて以来、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数に上る。「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。


いやほんとね、Atsushiお前文豪の自覚あるの? って聞きたくなるけど、多分こいつは「そんなもんねえよw」って平然と答えると思う。Atsushiの攻略を進めれば進めるほど、Atsushiは日本ブンガクで文豪とかそういうふうに評価してもらいたいなんて意識が全然なくて、ただひたすら、周りの日本にいるやつらを引き離して一人だけ世界水準のものを書こうとしていたとしか思えない。『文字禍』だって、Atsushiを後回しにして別な文豪をいろいろ攻略してるような奴ほど遭遇してびびるはず。最後までクリアすれば明白なんだけど、『文字禍』ときたら言語SFもマジックリアリズムもまとめて先取りしてるのに、それでもAtsushiは平気な顔してるんだよこいつ。まあAtsushiも、現代とかを舞台にして作者の分身みたいな主人公が出てくるいかにも従来の日本ブンガクみたいなフォーマットのやつもちょっとは書いてるけど、正直そういう日本ブンガクフォーマットのやつはぶっちゃけ面白くない。だからAtsushi攻略にあたっては、そういう現代物なんかは完全にスルーして問題なし。

だから、みんなもAtsushi攻略するんなら、こいつは日本ブンガクじゃないって思ってたほうが攻略はかどるんじゃないかと俺は思います。もしかしたらAtsushiは一人で世界文学やってたんじゃないか? って仮定したほうが、すごい色々納得できるんですよ。たとえば、Atsushiが初単行本を出すに当たって自ら巻頭トップバッターに選んだ『狐憑』


 ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。色々なものが此の男にのり移るのださうだ。鷹だの狼だの獺だのの靈が哀れなシャクにのり移つて、不思議な言葉を吐かせるといふことである。


っていう感じで、蛮人コナンがグレートソード振り回してるみたいなキンメリアあたりの先史時代をわざわざ選んで、知られざる「詩人」の物語が展開する。つまりね、Atsushiは初単行本の巻頭にあえて、創作についての、物語ることについての物語をもってきた。これがAtsushiなりのアティチュードの宣言だっていう解釈は、そんなに的外れじゃないはず。この話の末尾でわざわざ

 ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。

っていうホメロスへの言及をあえて行ってるのも、Atsushiが、アリストテレスの『詩学』から始まって現代まで続く、フィクションを物語るとはどういうことなのか等々のフィクションの機能や構造に関する問題意識やらメタフィクショナルな領域と物語の関係なんかに関する議論に自覚的だっていうことを宣言してるのだと俺は理解した。

だからAtsushiは、俺が知る中では、同時代の日本の作家の奴らのうちでただ一人、フィクションの構築について、フィクションをフィクションたらしめるテキストの機能とはどういうものかについて、自覚的に問題意識を持ってた作家だ。その証拠に、『鏡花氏の文章』っていうレビューの中で、Atsushiはこんなことを言ってる。

読者は、それ(筆者注:鏡花の作品)が、つくりもの――つくりものつくりもの、大変なつくりものなのだが――であることを、はじめは知っていながら、つい、うかうかと引ずりこまれて、いつの間にか、作者の夢と現実との境が分らなくなって了う。ここに氏(筆者注:鏡花)の作品と、漱石の初期の作品――倫敦塔・幻影の盾・虞美人草等――との相違がある。

『鏡花氏の文章』は、当時Atsushiが教員として勤めてた女学校の生徒相手に泉鏡花を読ませようと企んで熱いレビューを書いたっていう代物で、奴がナチュラルに狂ってることの証左とも言えるんですが、それはともかく、上記の引用で「つくりもの」をわざわざ太字にしてるのは原文のままで、Atsushi自身がフィクションが「つくりもの」以外の何ものでもないこと、つまりフィクションは断じて思想やらなんやらを語るものではないってことをとことん強調してる。そうして、テキストに対する耽溺を、テキストそれ自体を堪能できるテキストへの指向っていうのを『鏡花氏の文章』の中で表明するとともに、『枕草子』なんかも引き合いに出しつつ、そういったテキストが時代を超えた新鮮さを持つっていう理解を明らかにしてる。Atsushiのフィクションに対するこういったスタンスが、期せずしてナボコフあたりと非常に似通ってるってことは、いくら強調しても強調しすぎることはないくらい重要だと思う。あっここで前言撤回。さっき俺はAtsushiが基本ヘラヘラしてるみたいなことを言ったけど、行間に垣間見えるヘラヘラしたAtsushiの顔は実は単なる虚像に過ぎなくて、実際にはそこには作家本人の姿はない。奴は常にシリアスだ、多分。そういう機能を備えたテキストの構築に、当時の日本でただ一人、自覚的な問題意識を持ってゴリゴリに取り組んだ文字通り孤高の作家、それがAtsushiの真の姿だと俺は思ってる。『山月記』を通じて運営が押しつけてくるような、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心がどうのこうの」みたいなことに苦悩する作者本人なんてのもやっぱり虚像にすぎないんであって、その虚像を作者本人だと思い込むのは完全にAtsushiに踊らされてるわけです。

それでね、ここで俺が最初にお勧めした『悟浄歎異』のことを思い出してほしいんだけど(ここまで読んだのにまだ『悟浄歎異』をクリアしてないような奴はいないよな!?)、あれって『西遊記』の日常回だったでしょ? んで、影薄いカッパを主人公にしてる上になんにも事件らしい事件が起こんなくても面白かったでしょ? つまりね、それがAtsushiの書いたテキストが、物語の内容がどうこう以前に、テキストそれ自体だけで面白いってことなんですよ。そういう機能をちゃんと備えたテキストを意識的に書いて、それでAtsushiがフィクション構築したってことなんですよ。そうして、そういう機能を持つようにAtsushiがテキストを磨き上げた結果、奴のテキストは古びてるどころかむしろ時代を超えて新鮮に感じられるっていう結果につながってるんですよ。だから俺は、全ての物書きや物書き志望者に対して、こういうテキストを目指せっていうお手本として、Atsushiを強力にお勧めする

いやなんかさっきからAtsushiの攻略情報の話から完全に脱線してて申し訳ない。俺の話もだいぶ長くなっちゃったし、最後に、Atsushi攻略にあたって押さえとくべきAtsushiの属性とかについて説明しとく。

『悟浄歎異』をプレイした人なら薄々気づいたかもしれないけど、Atsushiの奴は根っからの二次創作体質なんですよ。ナチュラルに狂ってるどころか腐ってんじゃねえのかと疑わざるを得ない。たとえばですよ、『弟子』っていう作品なんかは


 魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装で、左手に雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)、右手に牡豚を引提げ、勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を揺り豚を奮い、嗷しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである。


ってまたワンパターンの冒頭Atsushiトラップから始まるんですけど、どういう話かというと、子路っていう奴が右手にブタ、左手にニワトリ持って孔子の家に行ってブタとニワトリの鳴き声で嫌がらせしてやろうとする(どんだけバカなんだ)んだけど、完璧超人孔子を前にすると速攻で子路がコロッとやられちまう……っていうオープニングに引き続いて、弟子の中で一番孔子に身も蓋もないことを言うツンデレ野郎の子路を主人公にして、完璧超人孔子にコロッとやられた弟子どもっつうかハーレム構成員どもと孔子がなんかわちゃわちゃするっていう内容で、要するにAtsushiの野郎はとうとう『論語』で二次創作をやりやがったっていう、どう考えても特定層を狙ったとしか思えない話なんですよ。まったくどうすんだこれ。

でまあとにかくね、俺の言いたいのは、Atsushiが突拍子もない時代や場所を舞台にして突拍子もない話をするやつは、どれもこれも基本的に面白いんで、冒頭のトラップを見てびびる必要は全くないから、文豪だからと肩肘張らずに気軽に突撃しろってことです。繰り返すけど、『山月記』で完全にAtsushiに踊らされてるくせに自分でそんなことにも気付かずに、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心がどうのこうの」ってAtsushiのことを語るような運営なんか完全に無視していいから。みんな頑張って攻略しようぜ。

それじゃ、またねー。




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