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ドライブマイカーの渡みさきの生い立ちの謎について考察してみた

ドライブマイカー。言わずと知れたアカデミー賞の外国語映画賞でグランプリを受賞した作品です。
私は濱口竜介監督のファンであり、この作品もすでに4回映画館で鑑賞しており、大好きな作品でございまして、
本日聖地の赤平まで彼女とドライブをしてきたわけですが。

今日のドライブ中に自分の恋人のふとした発言から、この物語の真相にかなり近づけた気がしている。

彼女いわく、「みさきの母親はすすきので働いてるのに、なぜ赤平から片道3時間くらいかけて毎日仕事に行くんだろうね」とのこと。

これは私も言われてみたらなるほど、おかしいと思いました。鑑賞中は気になっていなかったものの、赤平から札幌に車で移動しますととんでもなく遠いんですね。
ガソリン代も(今より安そうですけど)かなりかかるでしょうね。そりゃ引っ越した方が経済的には良いのは間違いナイ。

この物語の中でただ一点だけ、渡みさきという存在がすこし腑に落ちない部分があるように感じていたのです。

この作品には語られない物語がある。
それは語らないことで語ろうとしていたのではないかと考えたんです。

・舞台が赤平であるワケ

このことを言及している方を私は見かけたことがありません。唯一近かったのがYouTubeの映画ファンの方におひとりだけ。

みさきの母親は韓国人であった、という解釈でお話しされてます。私もそう思いますが、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
なぜ舞台が赤平なのか、です。

赤平はかつて炭鉱町だった。
しかも規模がかなり大きく、
朝鮮人や中国人を強制労働させていた歴史があります。

みさきの母親は戦時中に強制労働に従事した朝鮮人の2世だったのではないか、ということです。

私がこの作品が素晴らしいと感じたのは、この絶妙な省略にあります。
この背景を説明してしまうと、謎が解き明かされ物語の魅力がなくなってしまいます。
村上春樹の作品がもつ、絶対に解けないひとつの謎が物語全体を支配しているあの感じは、まさしくこの省略にあるのではないか、と考えました。監督の読解力が凄すぎるワケです。

つまり物語の主旨は大きく変わりましたが、物語の構造は同じなんですよね、原作も映画も。

そこがすごいんです。そんな高度な映画表現は見たことがない。


・なぜみさきの母親はすすきのに引っ越さなかったのか、もしくは引っ越せなかったのか

これはあえてぼかされてるのでさまざまな解釈が許容され得ると思われます。

  1. みさきの母親の独特な性格のため(こだわり)

  2. みさきの母は文盲だった(契約書が書けない)

  3. 戸籍がないから引っ越しできない

  4. みさきの運転が好きだった

  5. 赤平に留まらなければならない事情があった

  6. 差別や迫害をされ周囲の環境に馴染めないため(中国人や朝鮮人だから)

大体このあたりだろうか。
私は物語の全体を見た時に1.こだわり 2.母が文盲だった 3.戸籍がないから引っ越せない 6.外国人で周囲の環境に馴染めず差別される
ここらへんが可能性高いと思うんですよね。
合理的に結びつくのが在日2世だからって説はかなり有力かと思われます。
3.戸籍にしても、そもそも渡みさきの渡姓は父親の姓であり、母は姓も名も物語中に出てきません。出てくるのは別人格のサチだけです。


・みさきの母の別人格サチ

ここまで考えると、孤独な1人の語られなかった女性の物語が浮かび上がってくるワケです。監督は語らないことで語ろうとしてると徐々にわかってくる。

これはみさきの母が文盲だった説を補強するものですが、小学校しかまともに出ていないみさきが、サチに勉強を教えるというのがとても引っかかったんですよね。何を教えたんだろうと思わないでしょうか。

これはもう読み書きしかない

みさきはあの時間が好きだった、と述懐していました。この作品で一番暖かく、悲しいシーンだったように思います。

みさきは母にひらがなの読み書きを教えていた。
みさきの母はおそらくカタコトの日本語しか話せない、もしくはほとんど何も話せないような人物であった可能性すらあります。

みさきの母は作中で一見エキセントリックな人物と見られがちですが、そうではないことがわかります。なにしろみさきはこのサチに勉強を教える時間がなによりも好きだったのです。

この部分がみさきがワーニャ伯父さんの韓国手話に感動するラストシーンに繋がっていきます。


・渡みさきがワーニャ伯父さんに感動したのは何故か

母に読み書きを教えた時の感動が蘇ったから、じゃないかなあ。これはわたしの想像ですけど、言葉を教える、って身振り手振りもあるワケじゃないですか。それって手話に似てるんじゃないかな(もうこれは完全に私の解釈ですけど)。そう考えるとほんとに練られた脚本だし、謎は謎のまま、ただそこにあった気持ちを現実のものとして表現出来ているように感じます。嘘が本当になる瞬間に立ち会うようなこの感覚は、濱口映画でしか味わえないもののように思います。

・みさきはハングルを知らないフリをしていた?

韓国人夫妻と接する時の自然な感じ、ラストのハングルを流暢に話す姿から、実は最初からみさきはハングルを解していたという説。
自己開示がうまくできない性格だから隠してしまうのも納得します。
この場合みさきの母は札幌の環境に馴染めず引っ越せなかったのでしょうか。

みさきがハングルを最初から解していた場合、みさきの母は当然ハングルは話せるが、日本語については文盲に等しかった可能性もあります。

みさきが母に怒られる時に「殴られました」とは言っても、言葉でこう言われたという発言は無かったのも気になります。

みなさまはどう解釈されますでしょうか。
わたしは色んな人の解釈に触れてみたいです。

最後の場面で炭鉱労働者向けの改良住宅がちらりと林の奥に映っているのがわかります。濱口監督はこういう演出を好みますね。昔の日本映画みたい。


PS
全然関係ないけど、家福はみさきを娘の生まれ変わりみたいに思ってるけど、みさきはぜーんぜん家福を父代わりと認識してない(作中でも「え?」としか発言しておらず、目がめっちゃ醒めてる)のシニカルでめちゃくちゃ面白くないですか?ここも言及してる方いないんだよなあ。笑えるポイントだと思うんですけど🙄

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