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荘子の思想
荘子の思想
万物は一刻もとどまることなく生滅変化する。
このような無常観は仏教の思想に通じるものがあります。彼は一切の変化の根源を「道」と名付けました。「道」とは無限定なものです。
人間の「知」は、本来、無限定な自然を、限定しようとする方向にしかはたらかない。なぜなら、事物を対比し、分別し、秩序づけるのが「知」だからである。
人間の判断は、つねに相対的なものであって、絶対的な正しさなどというものはどこにも存在しない。にもかかわらず、人間は「知」に頼り、自己の判断を絶対視し、対立しあってはせめぎあう。
絶対的な正しさを信じるがゆえに人は間違った判断をし、対立が生まれ、争いが起こってしまうのではないでしょうか。
「知」を超えるとは、「知」が分かつ事物の差別の相にとらわれず、あれかこれかと選択する立場をすてて、すべてをあるがままに受け容れていくことにほかならない。(不知の知)
自然のままの人間とは荘子の描いた究極の理想像です。荘子は人間をあくまでも自然存在としてとらえています。人為が過ぎると自然を傷つけてしまいます。科学進化というもとで人間の心はますます自然から遠ざかりつつあります。人間が自在な境地に達するためには自然を回復しなければなりません。
無心になりきって、いっさいをあるがままに受けいれてゆく、これが「道と一体化する」という無限な自由な生き方なのである。
荘子にとって自由というのは、現実にとらわれない自在な精神を持つことでした。荘子はこれを、
「翼なくして空を飛ぶ」
「歩いてしかも足跡を残さぬ」
と言っています。
荘子は自由を前向きにとらえていました。
「生をよしとして肯定するのと同様に、死もまた良しとして肯定できるはずだ」
人間はとかく生に執着してしまいます。生死はもともと一体のものです。生をよしとするのであれば、死もまたよしとしなければなりません。私は生と死は等価なものだと考えます。ですから、死んだらどうなるかばかり考えても仕方がない。死んで生き返ってきた人などいません。たれでも自分が死ぬときどうなるか必ずわかります。
今回は、
岸 陽子 訳 「荘子 中国の思想12」 徳間書店
を参考にしました。
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