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2.保育園時代

僕は、田舎から田舎に越してきた人間だ。 と言っても、住処が父方の家から母方の家になったと言うだけで。 以前は、家の事情で父の実家と母の実家を行き来していたが、今度からは父も母の実家に完全に住むことになった。 その年は、父方の祖父が老衰で逝去した頃だった。
父方の実家の事情は僕には分からない。ただ、母はたまに面倒くさいと独りごちていた。 田舎の習慣というのは閉鎖的で縛りが強く、土地管理、金銭管理も父が長男だからと丸投げ状態だった。 そんな父も管理が上手い訳ではなく、無くすよりは良いと母に任せたといった感じに捉えている。
母は、仕事人間だった。責任感の強い芯のある人だ。それは今でもそうだ。 夕方7時頃までずっと仕事をし、帰宅する、そんな生活だった。 僕は当時、地元の保育園に通っていた。 もちろん審査もあり、狭き門だったと後に母は語っていた。
その狭き門に僕は運良く通ったらしく、通知結果に喜ぶ母によく分からず僕も喜んでいたのだった。
僕は、母方の家でほとんどを過していた。 母の実家も田舎だったが、父ほどの閉鎖感はなかった。ただ、噂は回るのが早い、そんな土地柄だった。 母方の家も、父方の実家と同じように敷地内に二棟家があり、母方の祖父母の家と、母の家に分かれていた。
母の帰りが遅い日は、母方の祖父母に面倒を見て貰っていた。 母が作り置きしてくれたご飯をレンチンし、セットされたお盆に乗せて祖父母の家で食べていた。 祖父は生活習慣病を患ってはいたが、酒好きで。
飲めないのに僕に「飲むか?」と焼酎を勧めてきたりするユーモアのある祖父だった。
勿論飲酒は断っている。 また、体質改善に、と祖母は祖父のために豆から豆乳を作り祖父に出していたのを覚えている。ジョッキいっぱい、スムージー状態の豆乳を祖父はよく飲んでいた。 その後、渡された薬を飲むのだが、焼酎で流し込むような人だった。
祖父は喫煙者でもあった。 黒革張りのリクライニングチェアに腰掛け、室内でタバコを吸っていた。 父がいる日は、一緒に話をしながら喫煙しているのを見たことはある。祖父の投げ掛けに答える若干居心地悪そうな父が少し可笑しく見えた。
とある日、僕は母に連れられて出かけることになった。 名目上、保育園への初登校になる訳だが、当時の僕は本当に呑気なもので、保育園の仕組みも知らずにのほほんとついて行ったのだった。 保育園は、働いている保護者の代わりに子供を預け、教育もする施設である。 僕は現地で初めて理解したのだ。
保育園に初登校した日、母は保育士の先生と色々と話していた。 僕はよく分からず、室内で遊ぶ子供たちをぼんやりと眺めていた。本当に、興味がなかったのだ。あの輪に自分が入ることに。 話が終わった時、繋がれていた手を、母が離した。 え、と戸惑う僕に、じゃあね、と手を振る母。
母っ子だった僕は、置いていかれる!!と思い込み、途端に涙が出た。裏切られた気分だった。保育園、幼稚園に限らずあるあるだとは思うが、僕もその1人である。 置いていかないで、なんで、お母さん!! そう泣き叫ぶ僕を、保育士の先生は慣れたかのように抱き上げ、後から迎えに来るから大丈夫だよ、そう言うのだった。
日常茶飯事なのだろう、先生はいつもの事と言った感じに受け止めていたと思う。 ただ、当時の僕にとって母親は絶対的存在で、何からも守ってくれる人で、僕に欠かせない人だった。その分、知らない施設に置いて行かれたというショックは大人になった今でも思い出せる程だ。
子供というのは単純で、しゃくりあげながらもどうにかこうにか話せる友達を作ろうと、園児達がはしゃぐ輪の中に入っていったのだった。 どうして泣いてるの、ここ初めてなの?ともだちになったげるよ!そしたらなかんでもいいやん! 今では顔も思い出せないが、そう明るく声をかけてくれた子がいた。
過剰な表現だと思うが、天使だと思った。 心の支えになった。 その子は気が強く、後々に色々と行動に制約をかけるような目に遭うのだが、当時の僕は話してくれる相手がいるだけでも有難かった。 僕はその時に、外部かつ同年代から貰った“優しさ”に初めて触れたのだった。
知らない人に話しかけるのにとても勇気がいる。大人になった今でもそう感じるが、子供の時もそうだ。 だからこそ言えることだが、そんな時に相手側から話そう、と言ってくれる暖かさ、優しさ、僕に手を差し伸べてくれている感覚。それが本当に嬉しかった。 涙はもう乾いていた。 しゃくりも無かった。
僕は、もし新しく入った子が出来たら、1番に友達になろう、話しかけようと、心に決めたのだった。それだけ、僕の心を動かした出来事だった。 ただ、母から先生に預けられる度に泣いてしまうことは数日続いた。
ただ、最初のように大号泣することはなく、友達に馴染んで行く度に置いて行かれた感覚は薄くなり、遂に、またね、と母に手を振れるようになったのだ。 成長した、と僕自身も感じた瞬間で、手を振りながら、もう泣かなくなったぞ、なんて1人で嬉しさを感じたのだ。
僕の保育園生活は、普通かと言えばそうではなく。暴れん坊で外で遊ぶのが好きで、嵌ってしまうと先生の指示も聞かなくなるほどの子供だった。 所謂問題児である。自分でも思う。 保護者間で交わされる連絡帳にもまあ悲惨に書かれていたようだったが、祖母は個性だとピシャリと言ってのけたのだった。
当時僕が一番苦労したのがお昼寝の時間である。それぞれの布団を園児自ら出し、寝る準備をして仮眠をとるのだ。 前提として僕は問題児である。 先生の指示には従うがこれっぽっちも眠くはならない。ただの暇な時間だった。 友達と隣同士意図的に布団を並べ、小声で会話するのが楽しみだった。
昼寝頃に眠くならない園児も僕だけではなく他にもいる訳で。園児達の話し声や不自然な寝返りなどには、先生から静かに、と諌められるのだった。 その度に口をつぐみ、小さく笑い合う、そんな時間が好きだった。

とある日。 友達とも離され、あまり知らないクラスメイトと布団を並べる日があった。 勿論話しかける術もなく。ただ、おやすみ、とお互い声掛けだけをした。 僕は寝付けなくて、数分おきに寝返りをしていた。ただ、話もせず、黙って過ごしていただけだった、、と、僕は思っている。

先生が注意しても話し続けたり、問題行為が目立つと、布団ごと前に出され、先生の前で寝かせられる、そんな保育園だった。 僕はほぼ常習犯だったし、その時はずっと指示を守っていない自覚もあったので、その時は大人しく目を閉じていたのだった。
ただ、その日だけは、僕は本当に何もしていないのに、布団ごと前に引きずり出される感覚があったのだ。 驚いて声を出しそうになったが、必死で飲み込んだ。必死で寝ている振りをした。ただ心の中で、え?なんで、、?おしゃべりしてないのに、どうして?と、疑問符が浮かぶばかりだった。
その時、横になっている僕の腹に圧がかかった。何が起こったのか分からなかった。思わず、「う゛、っ、!!!」と声が出た。 布団を被っていた僕は訳が分からず、掛け布団を外すと、先生たちが教材を作っている最中だった。 驚く僕に、先生は「あら、起きてたの」とあっけらかんと言い放った。

僕の布団は、先生のすぐ真下にあった。 全て理解して、驚愕した。 先生は、僕の上に座ろうとしていたのだと。

せんせい、なんで、どうして、、なんで僕なの、、 色んな言葉が頭の中をぐるぐると回っていたのを覚えている。 いけないことをしたら母からビンタを食らっていた暮らしだった。その度に泣きながらごめんなさい、ごめんなさいと繰り返していた。 罰を受けたんだと思った。いけないことをしたから。
でもなんで、僕がなにをしたの、何がいけなかったの、静かにしてたのに、と。 母以外から受けた“罰”に僕はただただ困惑するしか無かった。 あら、起きてたの、という言葉を信じて、間違って座ってしまったんだと思った。 僕は何も分からず、ただ、いつものようにごめんなさい、と謝った。
後々大人になって、母にこの話をしたことがある。 恐らく連絡帳には貴方の子供に座りましたなんて書くことは無いだろうが、何かしらは書いてあったと思う。 ただ、僕の話を聞いた時に母の顔色がサッと変わったのを見て、過去の話だからあんまり覚えてない、と母の怒りが爆発しないように誤魔化した。
小さかったから、知らないうちに注意されるような何かをしてたのかも、と。母には誤魔化し笑いをした。 ただ僕は、覚えている。先生の名前も。惚けたような、馬鹿にしたような、布団から飛び起きた僕に向けたそんな表情を。
ただただ悲しかった。布団の中に再度潜って、静かに泣いた。 泣いてるよ、とくすくす笑う声が耳に残っている。 僕は、先生たちから嫌われている。 その事実を認めるのが恐ろしくて、悲しかった。耳を塞いで、そのまま泣き疲れて眠りについた。











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