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フライング・スプーン


投げたスプーンは、スローモーションみたいに宙を舞った。


だから途中までは何回転するのだろうと落ちていく様子をじっと見守った。
カチャンと頭に響くような音が遠くから聞こえてくる。
12階のバルコニーには11月の訪問を告げる寒風が通り抜ける。
よそよそしくやってくる寒さに怯えるように、私はちいさくくしゃみをする。

さすがにロンT一枚という格好は寒すぎるかと思うけど、部屋に戻ってあたたかい空気に包まれるのも、今はそういった気分ではない。
半分くらい残ったハーゲンダッツのラムレーズンは少しずつ溶け出して、紙の容器がやわらかくなっていくのが掌に伝わる。
こんなに寒いのになんでこんなの食べているんだろう。
こんな寒い格好で、こんなさみしい夜空を眺めながら。

台所に戻ってもうひとつのスプーンを持ってくる。
すっかり溶けて液状化したアイスを、すくうように持ち上げる。
たらたらとスプーンから流れ落ちる白い液体を夜空に照らす。
スプーンについたその味は私をちっとも癒してくれない。

ほろ苦く、色褪せた、そんな味。

「みいちゃん、ハーゲンダッツ、買ってきたよ」

そんな声が窓の向こうの光から聞こえてきたようで振り返る。
当たり前だが部屋には誰もいない。
半開きのカーテンのレースだけがゆらゆらと揺れる。
幻聴は震える空気を伝って私の身体のどこかに染み入る。
そんなに前のことじゃないのに、どこか懐かしい声。

ヴヴッとバイブレーションが鳴り、あわててポケットからスマホを取り出す。
親友のサキちゃんから「みいちゃん、大丈夫?」のメッセージ。
今日はもう何件もきていて、未読のまま夜を迎えてしまった。
申し訳ないな、と思いつつ、「既読」にしないように気を付けて、アユムとのLINEを開く。
数時間おきに置かれた私のメッセージの横にも、「既読」の文字はない。
彼と別れてから、もう一週間が経つ。

毎週土曜日、必ず私の家に来てくれて、ご飯を作ってあげて、バラエティ番組をだらだらと流しながら一緒に食べた。一緒のタイミングで笑って、一緒のタイミングで料理を口に運んだ。
ワインを一杯だけ飲んで、そんな大人っぽい晩酌も映画みたいで、何かの記念日で買ったグラスは写真映えした。
二人で映画を観て、体を寄せ合って、泣いたり、笑ったり、共感したり、しなかったり、怒ったり、そのまま二人でどこかに行ってしまったり。

お風呂から上がって、バルコニーからの景色を見ながらハーゲンダッツを食べる。
私たちのお決まりの一日の終わり方。決めたわけではないけど、自然とそれが普通になった。
暑い夜に半袖短パンで見上げる夜空も、寒い夜に四枚くらい着込んで見上げる夜空もなんだか素敵に見えた。
その空は大抵綺麗じゃない。星も数えるほどしかない。
でも、二人で見る夜空が、一番綺麗だった。
お揃いで買ったアルミ製のスプーンは程よくアイスを溶かしてくれて、口の中いっぱいに幸せが広がった。

今日もまったく同じことをしたはずなのに、なんでこんなにも違うんだろう。

ご飯を作って、バラエティ番組を流して、笑って、ワインを飲んで、映画を観て、お風呂に入って、夜空を見ながらハーゲンダッツを食べる。
同じ夜空のはずなのに、まったく綺麗じゃない。
同じアイスのはずなのに、ちっとも幸せの味はしない。

私はまた、スプーンを放り投げた。

これで全部あきらめて、全ての希望をきっぱり断とう。
あの頃と同じように、一日が終わると同時にこの想いも終わらせよう。
投げたスプーンはアスファルトに当たって、時計は12時を指す。
真っ黒な景色を背にして部屋に戻り、カーテンを閉める。

すっかり舌は乾いて、甘い匂いはどこかに消えてしまった。
眠ろうとベッドに就いたとき、玄関からカチャンという音が鳴る。
ポストに何かが入る音。
そしてその音は、ついさっき聞いたスプーンが当たる音。


希望が灯る、微かな音。

私はベッドから飛び起きて、玄関に向かう。
その勢いのままポストから引っ張り上げたのは、私の部屋の合鍵だった。
あわててチェーンを外してドアを開けても誰もいない。
11月の風だけがドアの隙間から入ってきて、やっぱりロンT一枚は寒いな、と身震いする。


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