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母とオリーブオイル

 僕が高校生くらいの頃に、中学生だったかもしれない、夕方くらい、いつものように電気をつけないままの薄暗いキッチンで、椅子に座ってパンを食べている母親を目にしたことがある。そのとき、家には僕と母親しかいなかった。僕は学校から帰ってきたところで、いつものように、ただいまのひとことも言わないまま無言で玄関のドアを開け、そのまま当たり前に無言でリビングに入ると、あの雑然とした食卓で、母親がパンをオリーブオイルにつけながら食べていた。本当は四人掛けのはずなのに、机の上のおよそ半分が調味料とか、ふりかけとか、味付け海苔の瓶とか、ティッシュ箱などで埋め尽くされ、事実上二人掛けになってしまっている、あの雑然とした食卓で。

  多分、普段なら刺身醤油を入れているような小さな皿にオリーブオイルを入れて、そこにちぎったパンの欠片をぴとぴとつけて食べていたのだと思う。普段から、例えばバゲットとかカンパーニュとか、そういうおしゃれなパンはうちでは買っていなかったから、きっとそれは食パンだったのだと思う。和歌に登場する「花」が桜のことを意味しているのと同じように、うちで「パン」といえば普通は食パンのことを指す。僕が何を食べているのか訊いたのだったか、それとも家に帰ってきた僕に母親の方から声をかけたのだったか、定かではないけれど、彼女は「パンにつけるとおいしいってテレビで言っとったけん・・・・」と言った。僕への返答だったかもしれないし、食べ物に寄ってきた息子にひとりごとみたいに話しかけたのかもしれない。

 当時、オリーブオイルは我が家に馴染みのないものだった。というか多分いまでもそうだと思う。うちの母親は料理が特に好きというわけでもないから、油といえばサラダ油で、他にあるとすれば、せいぜいごま油くらいだった。そんな家庭だったので、オリーブオイルなんてわざわざ買わなかった。

 僕はその当時、まだオリーブオイルと深く関わったことがなかったが、直感的に、オリーブオイルに特別な味わい、例えば塩気とか甘みとか、パンに付けて分かりやすく「おいしい」と思えるような味は付いていないだろうということを知っていた。実際オリーブオイルは香りが重要で特に味なんてない。油だし。多分別においしくないだろうなと思って見ていたら、母親がこう言った。「おいしいって言っとったんだけどなあ」そう言いながら、もそもそとパンを食べ続けた。

 うちの母親は時々かなしそうに、さみしそうに、遣る瀬無さそうに振る舞う時がある。それは例えばこうしてひとりごとのように話すときだったり、スーパーでお金を支払うときだったり。遣る瀬無さそうに見せようとしてそうしているわけではないと思う。彼女にとってそれは無意識の行為で、まして隣に立っている息子が、自分のそういう仕草に特別な意味を見出しているなんて、思いもしないんじゃないかと思う。

 うちは全く裕福な家庭ではないし、母親も僕も、楽観的ではあるが、多分あまり幸福な人間ではない。たとえ幸福だったとしても、それは振り返ってみた結果としての美しさで、人生の最中において、瞬間瞬間の幸福をひしひしと噛みしめているような人間でも人生でもない。少なくとも、多くのひとと同じように、人生にいくつかの試練を抱えて生きてきた人間だったし、今も大体そんな感じなんじゃないかと思う。幸福な人間じゃないと言うと大袈裟かもしれないが、生きやすいか、生きにくいかで言えば生きにくい人間だろう。
 
 そのまま無言でもそもそとパンを食べ続ける母親を見て、胸がしぼむようなかなしみを得た。かなしいともつかないような、かなしいという言葉で表現するにはちょっと大仰すぎるような。取るに足りない、取るに足りない程だと思っておきたい、と言った方が正確かもしれないけど、それくらいのかなしさ、どちらかというとさみしさの方が近いのかもしれないけど、とにかく言葉ではよく言い表せないような複雑な気持ちになった。あれは何年も経った今でも、こうして深夜にふと思い出してしまうくらい衝撃的な光景だった。無知な母親が、悲しむ、とまでは言わないものの、少し肩を落とす、しょんぼりする、そんな光景が僕を置き去りにした。

 でも、その後も二ヶ月くらい、何本かオリーブオイルの瓶が買い足されていたことを鑑みると、案外気に入っていたのかもしれない。それかテレビで健康にいいと言っていたか。美味しい・美味しくないは実はそんなに関係なくて、健康のために摂取しようと思っていたのなら安心することができる。そうであってほしいとさえ思う。美味しさをそこまで期待していたわけではないのであれば、母親の期待は、僕が邪推したほどには裏切られていないことになるのだから。


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