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【Facebookアーカイブ⑤ 医師の連携など】

<医療従事者(以下、医療側)と患者の知識量逆転②>

これに対して医療側は、患者とは異なり、特定の疾患についてだけ理解していればよいわけではありません。医療側は、忙しさの合間を縫って、より自分の専門分野は勿論のこと、幅広い領域について勉強しなければならないのです。自分の専門領域についての勉強だけでも大変なのに、社会からは、医学一般に関する知識に精通していることが求められます。

しかし、先にも述べた情報爆発の時代には、これはもはや不可能と言わざるをえないことです。では、こうした前提が正しいとした場合、医療側の役割はどのように変化していくのでしょうか。

そこで重要になるのが、入手した医学情報の文脈を読み取り、臨床実地での経験と照合しながら、その情報の意味をとらえるという医学リタラシーです。医学情報というのは、こうした医学INDISERとしての医学リタラシーを踏まえてはじめて意味を持つものです。私たち医師は、プロフェッショナルとして日々こうした医学リタラシーを鍛えてきたわけです。


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<医師だけが連携する必要があるのか?①「特許と専門医」>

我々は、医学の全てを熟知した「神」のような医師を作り出すのは現実的でないと考えます。むしろ、個々の医師が専門科の一般的な医療に加えて、さらに深い自分の専門分野にも安心して専心していけるような環境づくりこそ、これからの医療に必要なことだと信じています。この環境において必要になるのが、専門性の異なる医師同士の連携です。

例えば、特許を取得する際にはこれまでにその発明が無いことが前提になりますが、特許庁のサイトで様々なキーワードで類似特許を調べる、または自分で調べきれない部分については弁理士さんに依頼します。 このように無いことの調査というのは存在するものを調べ尽くすことではじめて成り立ちます。

同様に、特定の専門分野における医学リタラシーを持つプロだけが、自分の専門外にある疾患を敏感に感じ取ることができます。だからこそ、その疾患について専門性を持った別の医師と連携することができたら、患者に対して、最適な医療を届けることが可能になるわけです。


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<医師だけが連携する必要があるのか?③「絶えず連携を探し続ける」>

指数関数的に情報爆発する新たな世界では、専門性の異なる医師同士がONAKAMAとして「流動性に対して」連携することが求められるでしょう。それは、これまでの患者の紹介というレベルを超えています。最終的には、専門性の異なる複数の医師が、1人の患者の治癒についての責任をチームで共有するような時代になっていくはずです。

古いビデオですがこれを見ていただくと変化のSPEED感に改めて驚かされます。



<医師だけが連携する必要があるのか?④「医師はハブ?」>

前の記事でリンクを示したビデオで見ていただいたように、情報爆発の時代では医師だけの連携では物足りないと思います。

物理的な時間的制約から考えても薬剤師、介護士、看護師など様々な専門家の暗黙知にまで医師は絶対にケアすることはできないと思います。そうなった際には医師が医療のハブになった時代は終わる可能性があるのです。(そもそも医師はハブだったのかという疑問もありますが)

患者の人生のFLOWや受診行動のFLOWでは介護士さんや薬剤師さんの方がボトルネックになっているのです。「いやいや、医師がいないと介護士さんや薬剤師さん動けないんだから」という先生もおられると思いますが、 受診行動の総体では医師を通過しますが、先生個人のところに来るでしょうか? 専門分科の激しいところほど 個人の先生のPATHを通過しません。 しかし、薬剤師さんや介護士さんはまだまだ医師ほど分科が激しくないため 薬剤師さんや介護士さんの方が 個々の人材レベルでみると多くの患者さんのハブになる可能性があります

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<連携はなぜ難しいのか?①「連携は必要と昔からいわれていますが、、」>

患者と医師の間における医学知識の格差が大きく、医学知識の総量が大きくなかった時代もありました。そうした過去においては、患者の紹介は、医師ギルド内のパーソナルな関係の内に完結することが多かったはずです。

しかしこれからは、このような小さな医師ギルド内の紹介だけでは、患者の期待に応えられなくなっていきます。そして、この流れを逆流させることは不可能かと考えます

ところで、こうした医師の連携については、それこそ、ヒポクラテスの時代より、ずっと叫ばれてきたことだと思います。ここまでの話を読んで「なにを、わかりきったことを」と感じられる先生もいらっしゃるでしょう。

しかし、それだけ必要性がわかりきっていることなのに、多くの連携に対する提案は成功しているとは言えない状況にあります。

この背景として考えられるのは、必要性から求められる手段としての連携というのは(おそらく)人間の本能に反するということです。本能に沿ったものであれば、必要性など議論するまでもなく、自然と発生しているはずだからです。必要性が自明と言えるほどに明らかなのに、遅々として進まないのが医療従事者の連携なのです。

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<連携はなぜ難しいのか?②「人間の本能と連携」>

人類は、旧石器時代(およそ200万年前〜1万年前)において、その本能となるところを確立したと言われます。そんな旧石器時代においては、家族に近いグループが、必要に応じて仕事も共同してきました。

ここで、人間がお互いの存在を求めるときの順番に注目してください。順番として、家族・親友と呼べるほどの良好な人間関係がはじめにあってから、その上で、仕事を共にしてきたのです。つまり、仕事のための手段として見ず知らずの人間が連携してきたのではなく、はじめに目的としての連携があるところに仕事が発生してきたのです。

しかし、旧石器時代以降の人類社会においては、組織図にかけるような公式な組織のほうが優先され、家族・親友のような非公式な組織はそれと比較して軽んじられるようになっています。この代償と言えるのが、私たち医療従事者が経験している連携の困難なのではないでしょうか。「連携しているから仕事が進む」のは事実でも、「仕事が進むから連携しよう」と呼びかけてもうまくいかないのです。

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