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哲学カフェを始めた理由


今回の話は、哲学カフェのお題は難しいものが多いのでは?という疑問から始まった、運営メンバーの哲学カフェヒストリー(途中からぐだぐだになり愚痴なども載っている)をお話しします。

Instagramで発信したのと被りますが、哲学に触れたきっかけ、哲学カフェを始めた理由、大学で続けてる理由、についてです。


京都の大学生による、哲学カフェとは?🍓☕️
で触れているので、投稿の方もいいね、コメント、保存、フォローよろしくお願いします。


あるシンプルな問いから、ある運営メンバーの哲学道は始まりました。

中学3年生の冬、クリスマスパーティの体をした高校のイベントに友人に誘われて、哲学カフェ(そのときは、もう少し柔らかい名前だったと思うが)になんとなく参加するまでは「哲学」という言葉のての字も知らなかった。

そして、哲学カフェで赤いものについての話をしていた時、ある問いが出てきた。


「いちごとは果物か?」
という、当たり前のようである問い。

「え、果物じゃなかったら、なんなん?」
そう、率直に思いました。正直なところ、「果物」意外には「食べ物」という括り、あと、それまでの議論で出てきた「赤いもの」しかいちごを表現するカテゴリーを持ち合わせていなかったし、「いちごはいちごであるということ以外に表現できない」と思っていた。

その後、別の見方として、

園芸学者の視点
園芸学的には、いちごは果物です。植物の種子を含む部分が果実とされるため、いちごも果物に分類されます。
というようなことを言われた。草だから…とか。

シェフの視点
一方、シェフは「いちごはデザートの材料」と考えるかもしれません。料理の文脈では、いちごは甘い料理に使われる食材として見られます。
あまりに、視点の変化というものに疎かったため、いちごは果物であれ野菜であれ、食えるんだから「食べ物」ってくくりでもいいんじゃないかなどと思いながら、また、赤色って全部同じ赤じゃないし…など、今まで「疑問に思っても無視されてきた自分の中のずれ」が、言葉になって溢れるようでした。

ちなみに、園芸学、生物学的には草なんです、と言われて終わる流れでした。でも、納得しなかった。

その時、私は種子が外に出ているから裸子植物の果実なのではないか?という考察をしました。(中学生らしい安易な間違いですが)
だって、タネは外に出てるっぽいし。

とはいえ、大人は「正解がない場だから」調べて、検証してくれたのです。もし、街中で「いちごは果実だと思いますか?」と聞いても、真面目に考えてくれる人はいないと思う。
(100歩譲って青果コーナーに連れてってくれる可能性はあるが)

ある意味、普段自分の考えなど、大人には相手にされてないのに、真剣に意見に価値があると認められたようで、一瞬でも他者の当たり前を壊しかけて、検討に値すると感じられたのが嬉しかった、という単純な理由で、哲学というものに惹かれた。

これは、単純なインプットの学習では得られない、学問的な快感だと思います。

しかも、会が終わった後急いでいちごについて調べました。
本当は裸子植物なんじゃないか、とまだ諦めてなかったんですね(笑)
いちごは実はタネの部分が果実であり食べられる美味しい部分、は実は花托(かたく)と呼ばれる肥大化した根本なんだそう。

他の植物だと茎の部分なんですって。おかげで「偽果」なんて呼ばれてるんだとか。哲学カフェは、知らんかったことを調べる機会にもなるんですわ。

こんなことがあったゆえ、哲学科に行けるとなったときには大喜びでした。哲学について、色んな人と語り合えるーってね。

でも現実はそんな甘くない。
そんな好きな人は、むしろ内向的で話なんてしたくないし、むしろ「常にずれる」「ずれざるを得ない」ことが当たり前だった側からすれば、「ずれに気づいた」「ずれと付き合える」側は目障りなことこの上ないのだろうと思う。

まあ、「ずれざるを得ない」に関しては「ずれと付き合える」ことと両立できるだろうと思うし、この「ずれ」という言葉にも「多様」と違う意味での面白さがある。「同じ性質が同じ土俵で、別の場所にある、ということ」をみとめる。という。

こんな感じでゆるゆるやってても、学生は来てくれるし面白いねーって言ってくれる人もいるので、なんだかんだやりたいって思っている人に恵まれているのだろう。全くもって誰もいなかったら、大学の学費まで払って絶望しにきてるよーなもんだからね。

実は、脳内で喋ることはあまりないという話を先日友人にした時に、独り言で脳内対話してる人の多さに驚いた。
やっぱ哲学科系の脳みその人間ではないのだな、と自分を再確認したわけだが、それでも哲学は好きだ。哲学が嫌いな人って、哲学が何かを悪い方向に持っていって極端なものも許してしまうってところが苦手なのかなあ。
それとも、めんどくさいのかなあ。
いや、哲学するのには、意外と胆力いるのよね。
入り口はとーーーーーっても広いし、誰にでも最初はできる。だから、やり始めは、人とやり始めたほうが楽しい。人とやっていくうちに、自分にしか開けないタイプの扉ばかりに当たるようになって、その鍵を探す旅に出なきゃならんくなる。

哲学科は、もうすでにその鍵を探す旅に出てる旅人ばっかりだから、哲学カフェよりも哲学パンクラチオンの方が合うかもね。
あ、哲学パンクラチオンってのは、うちで始めた新企画だからね!
哲学腕自慢みたいな奴は来てたりするし、哲学の無駄遣いもできる中級者or上級者向け〜

論文とか引っ張ってこないから、要注意。
アカデミックなことは、みんな、自分でやるんだゾ。



1人で考えることも価値があるけれど、大学で哲学をやることの理由のひとつに、大学の時の友人は哲学について気兼ねなく喋れるよなーって人生にしたいなってのが一つあるので、そういうコミュニティを絶やしたくない、というのはひとつの私の夢、ってか野望かもしれないですわ。
正直、自分がいなくなった後も残っててほしいとか最初は思わんかったんだけど、実感としてこういう感覚がある人が来てほしい。何学科とか何学部とか、そういうのは関係なく、勉強したい人。

研究とかできなくてもいいし英語読めなくてもいいし、学部卒予定でも全然いいけど、なんか勉強関連で感動したことある、または勉強に憧れてる人。ここ重要ね。

しなきゃいけないと思っててそれを自分の理想としてて、そのギャップで苦しむような(気持ちはわかるが)は、長続きしないよ。

自分のプレッシャーとか、しなきゃーって気持ちを問うのは、死ぬほど大変だしやりたいならやればいいけど、環境が合わなくなっちゃったからそうなった場合が多いし、落ち込んだ時に困るからおすすめはしないね。

そういう時は、とりあえずカフェでお茶でも飲もう。

…まって。本当に個人的な愚痴なんだけど。

あーーーーーカフェでも金かかるし、飲み放題のウォーターサーバーとか大学置いていけないかな?導入の交渉しても、維持費とカフェとの兼ね合いで難しいだろうなー。

とはいえ、エコだよ、時代は。あと、コーヒー一杯でお金取るんだったらもう少し別のところをグレードアップしてほしい。ジェラートのスプーンの持ち手のところとか。アイスミルクに氷が入ってるところとか。
しかし、総研に行く時だけは、めちゃ感謝してる。

とはいえさ、カフェでお茶飲むのにも、金あるやつとないやつで分けられてるんだな、と。しかも、普段一般に利用される類のカフェも最近貴族向けに戻りつつあるから、時給と同じ値段くらいだからね。いや、うちらが奴隷やらなんやらに戻りかけてるのだろうか?



一つの問いに対しても、立場や視点によって答えは異なる。もちろん、哲学カフェでは、多様な視点を楽しみながら、深く考える場を提供していきたいけれど、それによって傷ついたり自分の許せないことの輪郭やこだわりが見えてきたりもする。

あと、親との関係で拗れてた部分が溢れ出てきたり、小さい頃の自分と今の自分のギャップやら恥ずかしさやらでなんか全部嫌になったり。こんなに文字にできるのは、整理できたからかもしれない。

恋愛で傷ついたり人を裏切ったりなんやかんや。
そういうのは、自分で引き受けるしかない。

引き受けられた理由の全部ってわけじゃないけど、結構哲学カフェはでかいと思ってる。なんかあっても哲学カフェ行けばいいし〜くらいのきもちだから、なんか溜め込むことも減ったし。

自分ってなんなんだろー自分って肯定できないなーって思う人は、哲学カフェにおいで。
自分で見つけるための場所くらいなら、提供してあげれるだろーからさ。進み続ける人の今のために、昔や未来を見る場所を。

ということで、哲学海の哲学カフェ、哲学パンクラチオン、後輩育成などなど、やりますよ。よろしくね。


おやすみ。

pen name 袈裟

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