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視るという行為。

京都に小見山 峻さんの個展「なにものでもないものたちの名づけかた」を見に行ってきた。そもそも京都自体が久しぶりで、人の多さに京都らしさを感じたが、9割が日本人だったこともあり、改めて今の時代を感じた。

●価値観

今回の個展は「視る」という行為を見つめ直すことができるものであった。「視る」=「名前を認知する」という前提の概念から名前を奪うことで、人々は眼に映るものをどう捉えるのか。というある種、小見山さんの作品を通じて自分の感性や経験を振り返ることができる個展だった。実際の作品全てにおいて、それが「何か」はわからなかった。本当に写真なのか?というもの。何かの生物のようなもの。見慣れた風景の中に圧倒的な違和感があるもの。
作品を通して自分が感覚的に「良い」と思うものには色合いや配置のバランス、無機質さ、懐かしさなどがあると感じた。特に無機質さに関しては、自分が趣味で撮ってきた写真ものの多くが無機質なものであったため納得感が増した。人によって捉え方が異なるものに面白さを感じる。人が持っているそれぞれの価値観を引き出す行為は、まさに自分が写真を通して表現したいことだったのかもしれない。

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 *高架下から撮った橋の裏側(olympus μ:フィルムは忘れました泣)

自分の大切にしている価値観の中に「モノは考えよう」というものがあるが、まさにそれを具現化したものが自分の撮る写真であり、そういったものに惹かれるのだと理解でき、複数の点が線になった気分だった。


●自分らしさ

初めて小見山さんの作品を生で見て、その写真の色の出方や粒子の粒間の表現の仕方が印象的だった。自分で現像してはるという噂を聞いて、色の出し方やその際に気をつけていることなどお話を聞いてみたいと思うばかりだ。

世界には写真を撮る人が多くいる。その中でも人々から注目されたりそれで仕事をもらえるような人は、自分の「武器」となる強みを理解しており、活かすことができていると思う。小見山さんで言うと色や粒子の表現だと(勝手に)思っている(これからもっと勉強していきます、、)。これは写真に限ったことではなく、社会で生きていく上で誰にでも当てはまることだ。他の人ができることはその人にさせればいい。どんな些細なことでも自分にしかできないことをする。自分だからできることが自身の存在価値を感じられるものであり、結果的に周囲の人から必要とされるものだと思う。結局、自分が社会に出て仕事や趣味、遊びにしても通用する「武器」というものを知っておく、使えるようにしておいた方がいい。何をするにしても楽しい方がいいし、人に褒められたいし、やりがいを持ちたいと思うものだ。

自分の「武器」を理解するためには、ひたすら行動することに尽きる。食わず嫌いしないこと。もう遅いと思って諦めないこと。人目を気にして始めないこと。何事もとりあえず始めないとその先に何が待っているのかわからない。色々文字を連ねてきたが、結局最後に言いたいことは「行動して経験値を増やすことが大事だよなぁ」ということだ(自戒を込めて)



拙い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
デザイン関連も投稿しつつ、自分が気になった出来事などをピックしてその時の考えなども文字に起こしていければと思っています。

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