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埼玉を横断する③~その3

埼玉を横につなぐ

トップの画像は見沼通船堀公園から写した武蔵野線です。
武蔵野線を通じた、埼玉歴史散歩記事。
朝霞台から荒川を渡ると、埼玉県の中心地に突入します。
みなさん、埼玉県の県庁所在地は知ってますね。
そう「さいたま市」、唯一ひらがなの県庁所在地ですが、古い人はいまだ「浦和だっけ?」「大宮だろ?」って思うのかな。
2001年、21世紀に浦和・大宮・与野が05年には岩槻が合併し、いまやさいたま市。
けど今でも県庁は浦和駅の目の前にあり、埼玉県の政治は浦和駅が中心に。商業は大宮駅周辺が中心地という感じかな。
岩槻はこの記事の「②」で描いたよう「雛人形の町」で、あれ?「与野」って何なんだ??

まあ与野も後述するとして、武蔵野線でさいたま市に入りました!ここは与野でも大宮でも岩槻でもない、浦和です!!さいたま市の南沿いを進んでいる感じですね。

WIKIPEDIA「埼玉県」より。南部は戸田市と川口市、そのすぐ北の「さいたま市の南縁」をなぞりながら、東部の越谷に向かいます。

武蔵野線、西の新座や朝霞台から「次は西浦和」というアナウンス。
また別に、東の南越谷や東川口から「次は東浦和」というアナウンスがあると、埼玉県民は「大都市に来た!」と思うのでしょうか。
(都民や千葉県民は割とどうでもいい?)
ただ、浦和の駅ってのは面倒くさい。

朝霞台駅を通過すると、まず西浦和駅、そして武蔵浦和駅、南浦和駅、東浦和駅。どう行けば浦和駅? 実は武蔵野線では浦和駅には行けません。
南浦和駅で降りて湘南新宿ライン・高崎線に乗り換え浦和駅に行けます。そこから北浦和を経れば与野にさいたま新都心、大宮へ。
うっかり武蔵浦和で乗り換えると中浦和に南与野と与野本町と北与野で大宮へ。
はい、わたくし何度「浦和」という駅名を呼んだでしょうか。
東西南北の浦和駅だけでなく、中浦和に武蔵浦和にただの浦和。ここまで7駅も「浦和」という名がつく駅があります。気を付けないといけませんね。
さらに1992年にできた埼玉高速鉄道、赤羽から赤羽岩淵にて乗り換える(けっこう駅から歩きますが)と、浦和美園駅があります。
埼玉スタジアム2002(FIFAサッカーワールドカップ)があれど、浦和の市街地とは思えない辺境ぶり。あれ?ここは川口なの?(手前が東川口駅)越谷なの?(駅すぐ東の綾瀬川を超えると越谷市)、岩槻じゃないの?(ずっと北が岩槻)、頭がバグりそうですね。

ちなみにもう一度、武蔵野線はスタート地点に戻って整理しますと、多摩川の北にあります府中本町から、西国分寺へ。ここで武蔵野台地に入り狭山丘陵がすぐ西にそびえますいわゆる多摩地域を北上し東村山市の秋津町の新秋津から埼玉県に入りました。そうです、所沢市ですね。
南関東の西部に広がる武蔵野台地の南端を西にカーブし、新座やら朝霞やら川越につながる都市を経て荒川を越えると大宮台地。
広い広いさいたま市の中心部、浦和は横に長い!

昭和の大合併前の埼玉県。埼玉の地域区分はいろいろありますが、今回は便宜上ざっくり3つに分けると、荒川以西の武蔵野台地を西武(所沢・飯能・川越)とすると、大宮台地は中央部。
その南端は戸田・川口、中心の浦和・大宮、その北は上尾・鴻巣を経て北埼玉へ。
東の綾瀬川や中川に江戸川が通る東武(草加に越谷・春日部・久喜)とすると、上の地図だと大久保村(現在のさいたま市桜区)から美園村までが浦和なのだ。

大宮台地を抜けると、綾瀬川に中川に江戸川など川が流れる低地部分。
江戸川を超えると、千葉の流山に入り、松戸と市川の「チーバくんの鼻先」もとい千葉県の東京隣接都市を通り、西船橋にて武蔵野線は京葉線とつながります。
埼玉は、浦和と川口と越谷、吉川市と三郷市を通過しますね。そろそろクライマックスです! 読者の方々は読むのがツライマックス(MAX)でしょうか!? いつも長文スイマセンです。
今回は、浦和を中心に、その周辺の与野や大宮も描いていこうと思います。

浦和にて

さて、またまた調子に乗って南浦和駅から武蔵野線の路線ルートを脱出しちゃいました。
まずは浦和を描くんじゃ!!そのため浦和駅を目指し、浦和の歴史を確認していきます。

現在の浦和駅。
浦和博物館より、昔の浦和駅周辺。21世紀のトレンドとして、駅舎が駅ビルに変貌していきますね。

みなさん、浦和と言うと何が有名でしょうか。
やっぱサッカーファンなら浦和レッズ?駅構内にはサッカーストリートがある。

1908年埼玉県師範学校の細木志朗教諭がサッカーを指導し、その教え子が埼玉県内各地に着任。さらに浦和の高校サッカーが全国優勝を重ね、その土台にサッカーチーム浦和レッドダイヤモンズも結成された。

 実は「鰻の蒲焼」が静岡の浜松や三島に並び有名である。

鰻はお高いので、画像はイメージです。
葛西臨海公園で飼育されているニホンウナギ、
筆者がチェーン店「宇奈とと」で食した鰻丼、
新宿にあった名店。
かわいい鰻ちゃんの横に、蒲焼を載せちゃう変態ですね、僕。
やなせたかし先生がキャラ化した、浦和鰻の「うなこ」は浦和駅にて立っています。
浦和駅の通りにある老舗「満寿家」(ますや)さん。

古くは玉蔵院や調神社の門前町で、奈良時代には律令制の政庁(浦和区の氷川神社の場所)があった。

狛犬ならぬ「狛ウサギ」で有名な調神社(つきじんじゃ)。
2023年、ウサギ年のギリギリに行けました!
調神社は鳥居が無く、代わりに注連縄(しめなわ)が張られますが、もともと朝廷への調(みつぎもの)を蓄える倉庫。
やがて、調(つき)が月と同じ読みであることから民間の月待信仰とつながり、古くから多くの人々が参拝している。

やがて武士の時代である中世に入ると、交通の要所のためか市場が開かれるようになり、2と7がつく日に定期市(六斎市)が開かれるようになった。

埼玉県立歴史と民俗の博物館にて。
鎌倉時代の武士団では足立氏、高鼻和(高塙=たかはなわ)氏が広く領地を持ち、畠山重忠らの領地も一部にあったが、やがて戦国時代には岩付(岩槻)太田資正が勢力をのばし、関東支配を目論む小田原北条氏(氏綱)と対立。太田資正は今の大宮区に寿能城をつくり子の潮田資忠を置く。
しかし、太田氏が北条氏に下り、さらに豊臣秀吉と徳川家康に支配されていく。
五街道の整備により、中山道と宿場の浦和宿が発達。
旧中山道の街道沿いの古い家屋
市場跡には今でもおばちゃんが野菜を売ってる像があります。

都市として大発展したのはやはり江戸時代。中山道の宿場町・浦和宿である。
ただ、江戸から近いことから旅人にとりただの休憩所で旅館は少なく、人口は板橋から本庄までの10か所のうち8番目という少なさ。
ただ、ここから北は江戸前料理である「鰻の蒲焼」が食べれないため、また戸田の渡しを超えると江戸に入るので精をつけるということで、手前の蕨宿とともに「鰻の蒲焼」を食べる人が多かった。

浦和は「蕨宿は浦和大宮上尾をはるかに凌ぐ繁盛ぶり」「与野宿は大宮浦和をしのぐ活気を見せていた」とあったが、人口の多さから浦和県が設立され、やがて県庁所在地に発展していく

浦和駅近くにある埼玉県庁。

とくに埼玉師範学校や旧制浦和高校(当時は東京大学への合格者が全国2位)により学問の町となり、さらに1923年には東京から近く大宮台地の地盤が強い浦和への移住が進んだ。

与野へ

与野の地名は鎌倉時代末期の「融通念仏縁起絵巻」に「武蔵国与野郷」という地名が出てきたが、鎌倉堂の上道と中道を結ぶ交通の拠点となった。
さらに、江戸時代には甲州街道の日野宿と中山道を結ぶ道、そして中山道と川越を結ぶ中継地点として発達。

前回の「③の2」にて、新座と朝霞、そして志木など川越街道を描いた。
与野宿と、引俣宿(志木)、清戸宿(清瀬)を経て、小川と日野を結ぶ。
左が古代、右が中世の主要道路と与野。(与野市郷土資料館より)

与野宿は幕末期の文化文政時代(1904~1830年)には、大宮宿と浦和宿よりも家数が多く、さらに1887年明治20年は浦和町人口3524人、大宮町の人口2860人に対し、与野町の人口は3877人と多かった。

WIKIPEDIAより与野本町駅の前。
ふたたび、与野郷土資料館より与野宿の様子。

しかし、かつて大宮の住民でさえ「大きな買い物は与野でする」と言われていたが、のち県庁所在地であり学校施設の集中により文教都市として発展した浦和、鉄道の拠点として発達した大宮に対し経済力は衰えはじめた。
今ではあまり知られてないが、焼肉屋の安楽亭、ニトリホームズやホームズで家具などで有名な島忠(もとは春日部の島村忠太郎による島村箪笥店で、同じく春日部は大塚家具でも有名)の本社がある。

おまけ。江戸時代の数学ブームはロングベストセラーでどの家にもあった吉田光由の塵劫記の普及でも、関孝和の和算(円周率をエイトケン△2乗加速法を用い少数11位まで算出し、微分積分が発展する前に方程式の求根の際に導関数に相当する計算方法を挙げた日本数学史上最高の英雄といわれた)でも、日本の数学は庶民から大きく進歩したものだ。
その例として与野にも奉納された算額がある。
福島県が103枚、岩手が93枚、埼玉が91枚で全国3位。
算額のレベルは世界の数学者をうならせたり、さまざまな定理をすでに取り入れたもので、有名なのが神奈川の寒川神社のもの、「ソディの6球連鎖」に相当するものらしい。

そんな与野をしのいだ浦和と大宮。さあ、やはりさいたま市で最も経済的繁栄を遂げている「大宮」へ行きましょう!
みなさん、大宮といえば何ですか?

大宮へ

埼玉県の経済の中心である大宮駅周辺。僕の中でも、埼玉県の東武に住んでいた頃は、大宮は新越谷以上の繁華街であった。(西武民となった今は、池袋や新宿の方が近いため都会民風吹かせているが)

大宮は氷川神社があり、神がいる宮居からつけられた。
江戸時代に中山道の宿場として発展、1869年(明治2年)に大宮県ができるも、8か月後に浦和県に改称された。
さらに1883年に日本鉄道が上野~熊谷間(今の高崎線)ができるも、浦和と上尾の間に駅は設置されなかった。明治以降は中山道の宿場としての役割が低下し、閑散となったようだ。
しかし地元民の努力により85年には大宮駅が設置され、のち国鉄大宮鉄道工場や車両の編成などを行う操車場(現在のさいたま新都心)もでき、鉄道の町として発達。
現在も鉄道博物館が設置されている。(行ってないため写真はありません)
現在は浦和とともに高度経済成長期に東京都の人口が移り宅地化が進み、大宮駅も新幹線や埼京線に川越線をつなぐ一大ターミナルとして発達。
1990年代は人口も40万を超え、大宮そごう、ソニックシティ、アルシェ、さらにサッカーチームの大宮アルディージャの本拠地となり、2001年に浦和市と与野市とともに「さいたま市」となり消滅した後も「大宮」というと埼玉県の中心地となった。

中山道から分岐して、氷川神社への参道へ。今の大宮公園。
氷川神社
東武野田線の大宮公園駅から北に、大宮盆栽村がある。
大宮駅に戻る。
伊奈に行ったときに使った大宮ならではの鉄道「ニューシャトル」。

さあ、僕は大宮の歴史を探るために、どこに向かったのか。
バスにて自治医大医療センターに向かい、そこからしばらく徒歩。
芝川を超えると、繁華街は過ぎ去った先の、いわゆる田舎道。

目的地は、ここ「見沼(みぬま)区」です。はい、マニアックでスイマセン。
実は与野・浦和・大宮の東のはずれは、江戸時代は水没していたのです。ダムに沈んだ、みたいな。
見沼を沈めたのは、伊奈忠治。いや、こういうと悪人のように聞こえるのでちゃんと説明すると、父の伊奈忠次とともに関東の治水工事を担った埼玉の偉人で、川口市赤山御殿を根城に、利根川東遷事業に荒川の西遷、水道奉行として玉川上水にも関わり、大宮宿形成(氷川神社参道の西側に街道を分岐させ大宮の町の発展の基となる)にも携わる。
荒川や利根川(江戸湾に流れていた)の流れが変わったことにより、水不足となったこの地域。そこで伊奈忠治は東浦和と東川口の辺りに「八丁堤」という約870mの堤防をつくり、水を溜めはじめます。
これが「見沼溜井(ためい)」。水深約2.7m、周囲40km、この下流の水田に水を運んだが、見沼の多くの田畑が水没した。

芝川を渡り、見沼を横断しようとすると、バスが来た。
調べによると、あのバスの行き先は目的地へ直接行けそうだ。
乗りこみ、地図とバスの目的地を調べ直すと、なんと目的地よりかなり北の方に行くことが判明。しかし、僕は当初予定していたルートを修正して見沼田んぼを楽しむルートにした。

しかしながら、土砂の流入による貯水率の低下、そして一部が入江新田として干拓され水不足になるなど、問題が発生する。
8代将軍・徳川吉宗が享保の改革の一環として幕府財政の立て直しのため新田開発を進めようとすると、吉宗と同じく紀伊藩出身の幕臣・井沢弥惣兵衛(いざわ・やそうべえ)が見沼の干拓を進める。

思いがけずバスが北に行ったせいか、見沼田んぼを北から見てまわることができた。
たぶん、理想通りバスで目的地まで行ったとしても、見沼溜井あとの東端に来ただけで、田んぼを見て回るのためムダに北上を強いられただろう。
しかし、いつも通り休日は遅くまで寝ているため、大宮到着は15時すぎ。
相変わらずの夕闇探検隊(ひとり)です。
バスで見沼の北に来た時は16時まわっており、11月終わりの冬は日が沈むのがあっという間。
フナノ(収穫したワラを積み上げ屋根を乗せて野外で保存するワラの家みたいな風物詩)に着いた時は17時過ぎて真っ暗でした(フナノは見つからず)。
ホラースポットっぽい画像になりスイマセン。

井沢弥惣兵衛は見沼溜井を消滅させるため、北方の行田にて利根川から約60kmにわたり開削。八丁堤を破り、芝川に結んで荒川へ放水する事業をたった1年でやり遂げた。
これにより、新田面積1172haの見沼田んぼが完成し、肥沃な穀倉地帯になったほか、八丁堤のあとにつくられた「見沼通船堀」により江戸とを結ぶ見沼通線が開通。

夕闇というか暗闇の中。ホラーだなぁ。
いや、怖いっすよ。オバケか何かが出るっていうより、夜中に田んぼのど真ん中(あぜ道)歩いていると、「蛇とか、最悪今話題の熊とか出やせんか」とか。
車道だと歩道が狭かったり無かったりすると、「車に轢かれやせんか」とか。
真っ暗な中、やっと見つけた井沢弥惣兵衛の像。
周りに気を配り、フラッシュを使いました。

1934年、見沼にまた水没の危機が訪れる。東京は人口増加のため、狭山丘陵に多摩湖(村山貯水池)と狭山湖(山口貯水池)をつくったが、さらに増加する人口のためこの見沼を第三の貯水池にする計画を発表。
しかし浦和民の強固な反対にあい…
記録によると村役場へ「貯水池絶対反対」と大書きした莚(むしろ)旗を掲げた多くの庶民が「貯水池、叩き潰せ!!」となだれこみ、ついに計画はとん挫した。そんな熱い浦和民、駅前にいろんな像がありますが、この武者群像も浦和民の「いざとなれば戦う」意気込みを感じてしまいます。(撮影し忘れたので、ぜひ訪れて現物を見てください)

休みが月曜のため、見沼の古民家には入れず。
この日は、大宮駅で九州や京都の物産展をやってましたが、その端で福島の野菜が売ってました。
セリと原木しいたけを購入。
オススメレシピの通り塩ゆでならぬレンチンでツナマヨで食べましたが、旨味が濃く香りが高かったです。

武蔵野線に戻る~東浦和から東川口へ

さて、元の東浦和駅に戻ります。
もともと、どう浦和を描くか悩んでいたところ、結局、西浦和駅からも武蔵浦和駅からも南浦和駅からも、良いスポットが見つからず。
しかも、僕は月曜日休みなので博物館や郷土資料館は開いていない。
で、浦和の端にあたる東浦和駅に降りたとき、いっそ東川口から南越谷まで歩いて渡ろうかとウロウロしていたときです。

浦和駅で調神社やうなこを撮影した後に訪れた東浦和駅。
またも夕闇探検隊(ひとり)でスイマセン。
こんな大宮台地な高台とか、地形を描こうかなと思ってた矢先。

東浦和駅の前にある観光案内板にて紹介されていた見沼通船堀を見て、「ああ、これまで埼玉の博物館や郷土資料館やらで、さんざ見てきた『見沼代用水』とかを探ろうか」と思い始め、いくつか取材してみたもので。
武蔵野線にてこの案内板に出会い、別日に東浦和駅を再訪し見沼通船堀を散策し、浦和駅も一応撮影に行き、そして見沼区から「見沼溜井」を思わせるような素材を求めて歩いて行く。
「浦和たてもの園」の記事も載せようと思いましたが、まだ日曜日休みになっておらず、いっそ川崎の民家園をこれから見学し、以前小金井で見学した「江戸東京たてもの園」の記事とまとめてみようかなと、とりあえず今日アップすることに決めました。
しょっぱい紹介記事かもしれませんが、手間はかけてますのでどうかスキを押してくだせぇ。
(まあ、僕の趣味ですけども)

先述の通り別日の明るいうちにもう一度東浦和駅に向かい、見沼通船堀を見て回りました(ちなみにこの日は次回に描く予定の越谷レイクタウンにも取材に行ってます)。こんな感じでーす。

まだ、「さぎ山記念館」に「坂東家住宅」に「浦和たてもの園」にも行けてないですし、見沼のグルメなどもアップしてないのですが、一応、下の地図の通り、大宮~見沼の旅と今回の地図がつながりました。
まあ、見沼を堪能したということにしてください。

ふたたび、埼玉県歴史と民俗の博物館より画像引用。南端にある八丁堤が見えますでしょうか。

駅前ちょっと先にある見沼通船堀公園から、徒歩1時間くらいで見沼溜井の南端あたりを歩きます。八丁堤のあとを見に行きましょう!

八丁堤の起点である附島です。東の木曽呂(川口)まで、870m。

今はただの橋になってますね。通船堀をとりまとめていた鈴木家住宅とともに。

木曽呂の富士塚を見て、また戻りました。

見沼通船堀は、パナマ運河よりも古い閘門式運河。
前回、「東京のデルタ」を描いたときに「荒川ロックゲート」のときに、閘門式運河を見学しましたが、日本最古の閘門式運河を見たときにいつか見学に行こうかと思ってたところでした。

通船堀の橋の上。
埼玉県立歴史と民俗の博物館。
下は荒川ロックゲート。閘門式の説明ものっています。

さて、こんな感じということで。
次回は、この武蔵野線で埼玉を横断する記事も最後にします。
まあ、また埼玉を別の視点で描くのでしょうが。
越谷と吉川、あと三郷。撮れ高、大丈夫かな…? 良いの無いとまた撮影に行かないと。


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