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くるくる、くるり。チーバくんの鼻to耳①

こんにちわ。例の虫です。前回千葉の旅で活躍したギョウチュウちゃんをまた呼び出そうと思いましたが、どうもお尻が痒くなりそうなのでやめておきます。
今回はチーバ君のお尻こと鴨川じゃなく、チーバ君の鼻と耳にあたる場所に行こうと思ってますので、ギョウチュウちゃんじゃありませんね。
耳と鼻に寄生する虫…  ってのも怖いものなので、僕はただのその辺に飛んでいる小虫としてチーバ君の鼻の中に突撃します。ぶぇっくしょ!!(鼻がむず痒くなりそうな方は申し訳ありません)

ついでに、以前は「くるくるくるり」で千葉の鉄道こと、ユーカリが丘線と久留里線を紹介した記事が、わりと僕のNOTEの中で上位の「スキ」(35くらい)をいただきまして、読んでいただいた方々、ありがとうございました。過疎記事ですが、皆様に少しでも多くの「町」を知っていただきたくがんばります!過疎記事ですが!

さて、これからチーバ君の鼻に突撃します。
鼻孔くすぐるような、かぐわしそうなこの土地。
ここはいったいどこでしょうか!?

千葉県野田市にようこそ!

千葉県野田市。チーバ君の鼻の先へいたる都市です。

みなさまもぜひ、鼻にINしましょう!!
鼻の孔から、突撃!!

千葉県野田市ですが、東武アーバンパークラインこと「東武野田線」の野田市駅というイメージがあるでしょう。確かに野田市駅は全国の醤油でみなさんのご家庭にもございます「キッコーマン」の工場があり、「もの知りしょうゆ館」で工場見学(おみやげに醤油ももらえ醤油ソフトクリームなども買える)でき、キッコーマンをテーマにした野田市郷土博物館も遊園地もショッピングモールもあり。
ただ、今回はチーバ君の鼻先こと「関宿」へ向かいます。
野田市のキッコーマンとかは後述にて。ここには、東武伊勢崎線(野田線だと春日部乗り換え)で東武動物公園駅にてバスで向かうことになります。埼玉北部からから千葉の野田へ。異次元のワープでもなく、埼玉県民にしては野田はご近所です。(一時越谷市民だった僕の偏見かもですが)

埼玉の中川越えれば辺境で(松伏・吉川・三郷の方々はすいません)、江戸川越えれば千葉県の野田と流山に至る。

関宿① ~昭和の偉人

さて、埼玉のTDL(東京ディズニーランド)ことTDK(東武動物公園)から、バスで揺られて数十分。東武動物公園駅と言っても駅前からディスニーリゾートラインなんてなく、着くや否や「どこに…東武公??」と地図なくば砂漠に突き出されたような駅前の反対口の寂れたタクシー乗り場の外れに追いやられた、1時間に2本程度のバス停にて乗車します。

関宿の入り口あたりに野田市の有名人が待ち受けています。「ようこそ、野田へ!」、さて誰でしょうか。
以下の写真3枚をごらんください。

江戸時代生まれの最後の総理大臣に。

終戦の時の総理を務めた鈴木貫太郎です。いきなり歴史話です。苦手な方は下に読み飛ばしてください。
元関宿藩士で、明治維新後は軍人として活躍。とくに魚雷の名手として「鬼貫」といわれ、数々のロシア船を沈める。
のち海軍大将となり、昭和天皇の幼少期の教育係「足立たか」と再婚。
予備役後には皇室の侍従長となるが、二・二六事件で襲撃される。
肩・胸・腹など4発を撃たれ瀕死になるが、妻のたかが「老人だからとどめはやめてください! どうしても必要ならわたくしがいたします!」と説得。一命をとりとめる。
のち、1945年の太平洋戦争末期。戦況悪化の責任を取り小磯内閣総辞職後、次の総理大臣に昭和天皇の信任厚い鈴木が指名された。
しかし、「軍人は政治に関与せざるべし」と鈴木は拒否。
ついに昭和天皇が自ら鈴木に「頼むからどうか曲げて承知してほしい」と言われる。

政治手腕に自信がないが総理となった鈴木の重責は、日本存亡にかかわる局面「終戦工作」だった。鈴木の手腕は後世においても賛否さまざま。
重大な業績としては、ついにポツダム宣言(降伏について)受諾かどうかの御前会議。主戦派と降伏派がちょうど真っ二つに分かれ激論を戦わせていた。
紛糾した深夜2時。かねてから考えていた鈴木は、ついに昭和天皇の御聖断を求める。昭和天皇は涙ながらに「朕の意見はさきほどから外務大臣(降伏派)に同意である」と即座に受諾案に賛成した。

個人的に、この後の主戦派「阿南惟幾」陸軍大臣の在り方も胸熱です。
あくまで平和を願っていたが、軍の暴走を止めるため主戦論を唱えていた阿南。御聖断のあとはそれに従う意思を持ち、のち鈴木の部屋に訪れたとき挨拶と鈴木に戦地で手に入れた葉巻を渡している。迫水に対し鈴木は「阿南君は暇乞い(お別れ)に来たんだね」とつぶやいた。
宮中にて陸軍のクーデターの動きが起きる中、阿南は未明五時半に割腹。
陸軍軍人たちに絶大な信頼をもっていた阿南の自決は、陸軍に対するポツダム宣言受諾への大きなメッセージとなり響いた。現職閣僚の自決は、2007年の松岡農水相以外にいない。

戦後、政府の要職としては、上記の画像にある枢密院議長を経て日本国憲法公布に努めた。しかし、「軍人は政治にかかわらない」の信条のもと、特に「敗軍の将だから、郷里に帰り畑を相手にする」と野田の農業に従事。

魚雷、二二六事件、総理に終戦、日本国憲法、そして野田の農業と酪農。鈴木貫太郎の戦いは続いた。
鈴木貫太郎閣下に対するオススメ映画「日本の一番長い日」(半藤一利の原作小説)や、漫画だと「昭和天皇物語」(能條純一)。
大作を読む時間がないなら、小林よしのりの「昭和天皇論」も1巻でまとまっており鈴木と阿南のやりとりの描写があります。

日本に、そして野田に貢献した鈴木貫太郎。
千葉の外れの野田の北の外れにあり農地が広がる関宿、小説や物語などの聖地巡礼の要素がマニアックな歴史の話ぐらいしか見つかりませんが、鈴木貫太郎を通してあの大戦のことを思い偲ぶことができます。彼の心に接しながら野田を旅するのも良いでしょう。
だがしかし、この鈴木貫太郎記念館は令和元年の台風の被害に遭い長期休館中(開館するかも未定)です。残念です。
(野田市郷土博物館にて、鈴木貫太郎の資料と所持品をいくつか見学できます。)

なので、ついでに関宿出身の有名人である彼のポーズでもとっておきましょう。

関宿② ~関宿城までの道

さて、滞在2分の肩透かし。入ってすぐに追い出されたかのように(館内の係は受付にいませんでしたので僕の体感です)この場を去ります。
まあ以前野田市郷土博物館にて見学したのでそれでよしとしよう。
ここから本来の目的である、ちょっと奥にある関宿城博物館と、チーバ君の鼻先である江戸川と利根川の分岐を探しに行きます。

おもしろそうな小径。どうやら牧場のようです。酪農を推進した鈴木貫太郎の思いを感じてしまいますが、そもそも千葉は乳業の飼育頭数がたしか5位くらい? いやそもそも酪農の発祥は千葉の南房総で徳川吉宗がはじめたもの。酪農は北海道というイメージですが、かつて冷蔵技術が発達してなかった頃は、遠い北海道より千葉の生乳が東京に出荷されていた。

もーん。僕に挨拶してくれたようです、たぶん。

て、寄り道すると話もとっ散らかりますので、関宿城を目指しましょう。

鼻先の方に現在地の鈴木貫太郎記念館がありますね。

2つの河川の分岐として、船の取り調べをする関所が置かれています。
これが、「棒出し」と呼ばれた突き出した堤防の上に。

棒出しについては、関宿城博物館にくわしい展示があったので、そちらも。
僕は関宿城を求めて江戸川の堤防下の道を歩き続けます。城はまだか…!?

しかし、なんとここが旧関宿城のあとだったらしいのです!
ええ?あの城の建物は、ただの博物館!? 本丸じゃなくて!?

何気に敷地内だったのですね。さて、そろそろ見えてきました。
これは近年建てられた摸擬櫓こと「関宿城博物館」なのです。

現在、利根川と江戸川を見守りながら、畑の中にたたずむ関宿城、もとい博物館。

関宿② ~関宿城博物館まわり

関宿城博物館へ到着です。おもに利根川と江戸川とつながる関宿の地理と歴史が展示されています。まずは、城周辺。舟運と洪水対策の展示にて、「川」のアピールをしています。(以下、写真5点のあと館内へ)

館内に入ります。資料内容はとても豊富でしたが、自宅から遠く閉館間際ギリギリの到着だったため、僕の中のいくつかのハイライトを取り上げます。詳しくはぜひ現地にご訪問ください。
とりあえず、エントランスのカッパとチーバ君を。僕もこれから、「カッパの川流れ」というイメージで、荒川を研究した記事を描く予定(去年から進んでませんが)。

こんなかわいらしいカッパが描けるかどうか。

関宿城博物館内(水塚)

僕はこれまで博物館や郷土資料館を通し、多くの町が「川の恵みと洪水の場所」の歴史を経てきたことを描いてきた。
以下は、埼玉東武をはじめとする川沿いの地域で洪水対策としてとてもよく見られた「水塚」。たとえば東京北区飛鳥山博物館の展示や春日部の郷土資料館などでもその分布が示されていたが、この博物館でも最初に前面に出してきた。
また、木曽川周辺のたとえば岐阜県海津町などの「輪中」の水屋のように、似ているものは日本各地にあるのだろう。(以下、写真8点)

水塚とは。
水塚の分布
洪水による水没前の水塚
水没後
水塚の中
上下の写真、梯子が貫くように撮れてました。

水塚はもちろん過去のもの。現在は洪水対策として、ダムや貯水池などが進んでいるためか、避難場所と言えば公共施設だ。高台に設置されているのだろうか。
また、春日部といえば、地下神殿ともいわれる外郭放水路がつくられ話題になった。

この辺りの洪水の歴史が年表でまとめられています。川とともに発展した関宿にて、洪水を展示していくことは、川の恩恵と恐ろしさを伝えるための住民に対する意識づけなのかも。

利根運河

洪水という負の面はあれど、川は水運を活発にさせる。
利根川と江戸川の合流地点の関宿城南部にて、明治時代に再び利根川と江戸川を水路で結んだようです。そう、荷物を船で運ぶためにつくられた水路こと「運河」だね。
話を根っこから遡りますってぇと、そもそも東京こと江戸の多くの商品は、東回り航路と言われた東北を南下して運ばれる航路にて運ばれるのだが、太平洋側を北から南下して、「房総半島を南下し東京湾こと江戸湾に入るルート」は大きな遠回りとなる。
なので幕府は当初、「銚子から利根川を通り江戸へショートカットする」海→河川に船が入りこむルートを勧め、これも江戸幕府が初期に進めた河川工事の大プロジェクトの「利根川東遷(江戸湾に流れていた利根川を銚子に移し返す・後述)」の目的の1つであった。
だがこれも、利根川を遡った挙句、千葉の北端である関宿までわざわざ迂回して江戸川から荷物を運ぶ面倒なことをしている。

川名登「河岸に生きる人々」より。
千葉の最東端、犬吠埼の付け根の「松岸」から西に入り、霞ケ浦の南の佐原からさらに西へ。
こっからまっつぐに西に突っ切って江戸を目指せばいいってものを、謎の北上カーブ、関宿から南下して野田・流山・松戸・行徳を経て小名木川から江戸へ向かいます。

なので、東は利根川の布施河岸(今の柏市)と、西は江戸川の加村河岸(今の流山市)にて陸路にてショートカットしていたようで。
「しゃらくせぇ、西に突っ切っちめぇ!!」という短気な江戸っ子、熟れ鮨(なれずし)の米の発酵も待てず、米に魚乗っけて御酢をぶっかけて江戸前寿司を作り出すなど効率性を求めてた人々ですから。こういう江戸に関わる市民たちが工夫を重ね文明発展に貢献してきました。こうしてできたのが諏訪道と言われた現在の県道柏・流山線で、奥州や千葉周辺と北関東や江戸の荷物が行き来される大動脈だったようだ。
しかし荷物をわざわざ積み下ろし、しかも荷物を背負ってその間約10km近くを歩くようで(下の画像では8kmとあるが別の資料では14kmとある)、短期で開き直ったように馬鹿の一つ覚えのようにヒイハア荷物を抱えて突っ走った阿保(アホ)で小粋な人々も考えはじめます。
大変なのでもういっそ利根川と江戸川を結んで船でショートカットしちゃえ、ということでしょう。

しかしなかなか実現できない夢だったようで、やっと明治時代に入りかねての要望であった利根運河開発が着工され1890年に完成される。諏訪街道の北部、今の東武野田線の運河駅周辺だ。なんと、銚子-東京間を144kmを18時間で結ぶ画期的なものだった。
だがしかし。できたのが遅かった… 1897年に銚子と東京を結ぶ後の千葉への大動脈となった「総武鉄道」が開通し同間の移動がたったの4時間に。交通など産業革命はいろんな既存をつぶしていきます。運河の交通量は減り、ただの水害対策のものとなる。

かつて江戸時代をピークに栄えた街道と水運は、今や鉄道がとって代わり、現代の町の繁栄も、基本的に鉄道駅中心によるものだ。
しかしながら、いつかはそれも新しい交通の在り方、たとえば水運の再興などに塗り替えられ。現代の都市もいずれは衰退や繁栄が塗り替えらえるだろう。ただの薄暗い獣道であった新宿や渋谷・池袋が鉄道の乗降者数世界一のメガロシティとなったように、やがてこれらの都市もまた薄暗い獣道に戻るのかも。

今も残る利根運河。

利根川東遷工事

関東を語るうえで割とどこの郷土資料館でも見られる話なので、今回は3枚の写真を見せるだけです。

利根川は江戸湾(今の東京湾)に流れていました。
江戸の洪水対策だけでなく、水運の目的でも江戸時代の初めから行われた「関東開発事業」の根っこのものです。
国土交通省・関東地方整備局の江戸川河川事務所HPより。1000年前の関東の河川。
江戸開発前の、混沌とした関東の河川状況。
工事を担った伊奈忠次と忠治親子は、関東の河川工事・町づくりの神様のようなものです。

復習・関宿棒出し

堤防ですね。ただ、洪水を防ぐのは「水をはねかえす」だけでなく、「流れ方を変える」という考え方というものもあるようで。

これは何の変哲もない堤防づくりで、博物館の外にあった「蛇籠」も使ってますね。
玉川上水の上流である羽村の郷土資料館でも東京都水道局の博物館でも同じものを見ました。
棒出しとは直接関係ないのですが、堤防づくりのイメージとして。

棒出しの機能を簡単に言えば、利根川と権現堂川の2つから江戸川に流れ込むため、その流路をせまくして、権現堂川の流入を減らし、権現堂川の大部分を利根川に流し込むというもの。
同時に、この棒出しにて船の行き来を取り締まる関所が作られました。

棒出し付近の船の行き来のイメージを、以下の3枚の画像でお楽しみください。

南からの俯瞰
東からの俯瞰
中川と江戸を結ぶ運河「小名木川」への交通を取り締まる「中川番所」を思い出します。
中川番所も取材済みのため、機会あれば記事にまとめたい。

関宿城博物館の展望台から

関宿城博物館は4層3常設展もあり、それぞれ展示物のテーマがちがうが、川についての展示を見た後は、ちょっと屋上の展望台から眺め見てみましょう。まず西方面。

しかしこうも、なぜ千葉に行くときは曇りか雨か。
僕は久留里城(雨城)の呪いかと本気で思い始めています。
予告ですが、次回の佐原と銚子の旅も、雨です。

北方です。曇でガスってたもので、山なんて見えないので撮影しませんでした。

北西を見ると、利根川が見えます。

川から発展する産業

水を用いて人々が従事する産業。農業だと稲作や畑作だろうが、工業だと何でしょうか。

紙づくり? それとやはり、「醸造業」でしょう。
これはこないだの「くるくるくるり」でまとめた久留里もそうでした。水がきれいな場所で、今でも各地で湧水が得られ、おいしくきれいな水でお酒を造ってました。酒の生産が最も多い兵庫県の神戸・灘も六甲山のおいしい水を使って発達してますね。
醤油、酒造。千葉はさらに「みりん」の生産もさかんです。

流山の万上みりん。
銚子はヤマサにヒゲタ。野田はキッコーマンですね。

醤油は筑波山(茨城)の下総台地で生産された大豆と、行徳塩田など海沿いの塩で醸し出され、銚子と野田の2大産地ができました。これらの輸送も水運の大きな役割です。醤油と酒は食文化の要。
わたしは今、ただの虫ですが、「お醤油様の、御成り(おなり)~!!」みたいな感じで、以下の3枚の画像にて水運をイメージしてはいかがでしょうか。

銚子から利根川を関宿へ向かって運ばれるヤマサ醤油。野田はキッコーマンが醤油をつくり運びます。さらに筑波山あたりから原料の大豆や水戸納豆、行徳から塩も輸送されます。
さまざまな物品が、小名木(おなぎ)川を通りから浅草へ、御成り~♪
さあ、アップで。ドーン!!

関宿を南下し、醤油様の御成り~♪
小名木川を通り江戸へ、醤油様の御成り~♪
小名木川から醤油様は深川を経て浅草に御成り~♪です。
ここが江戸の繁華街。まるで天下の台所・大阪のごとく浅草の蔵屋敷に全国の物品が集まります。
浅草は関東大震災までの、江戸と東京の中心都市だったのです。

繁華街から、西の多摩や西武のほうにも荷物持って歩ってくべぇ。

洪水と戦いながら、河川を通じて産業や輸送を行ってきた人々。
次に続く佐原も、茨城の霞ケ浦も水戸も。川はやはり町の根幹であり、僕はこれからも描いていきたいテーマです。

関宿城から関宿藩へ

梁田氏から、江戸幕府になると久世氏の支配する藩へ。

古河公方足利氏に仕えた梁田氏は、後北条氏に城を明け渡し、逃げたようです。
だから、関宿を見捨てた恨みで写真がブレているわけではありません。
梁田氏の資料写真がこれくらいしかなかっただけです。
久世氏は徳川の譜代大名として重臣となり、特に幕末の公武合体運動では広周が和宮降嫁などで活躍。

長々と展示を紹介しましたが、もちろんこれはごく一部です。
展示物は最後に、江戸の五街道の1つ日光街道(東武伊勢崎線沿い)に続いて突如僕の知識に乱入し「!?」となった日光御成道というバイパス道路(川口の鳩ケ谷と岩槻を通る)、さらに「!??」となった日光脇往還という八王子同心が東照宮の警護に使う道路(八王子やわが家のある入間と日高・坂戸や松山と群馬は舘林を通る)、そして今回新しく乱入した「日光東往還」に混乱しているのをお見せしながら。

関宿を去る

閉館時間ギリギリまでねばり、博物館を去った後は、周辺の散策です。
なるべくチーバ君の鼻先までたどりつければ良いのですが。

江戸川・北に利根川からの分流地点です。

どうやらここまでが限界のようです。さすがに通行止めを超えることは旅人のマナーとしてやってはいけません。ましてそれをSNSでアップするモラル無きネット民になってはいけない。
ネットは今や人間の新しいライフスタイル、今はその黎明期。「まだ行けるのに!」という自分のエゴは押し殺さないと。どうしてもというのなら、周辺自治体に取材という形で時間をかけて交渉し手続きをとる。
これが民主的な方法です。民主主義は粘り強い交渉と手続きで成り立つもの。これを無視したことを蛮行と呼ぶのでしょうか。しかしながら、近年は庶民より、某東京都知事や自民党や野党など権力者側が蛮行をはたらry

そんなことをうんたらかんたら思いながら、なんやかんやで関宿を去ることにします。

お楽しみに、僕の大好きな「道の駅」を目指します。「道の駅さかい」。
おいしい食材が売ってそうです。川にちなんだ御当地食材とかないかな♪

曇っていたのですが、雨は降りませんでした。そう実は、ここは茨城県。
千葉の久留里城こと雨城の呪いが解かれたのでしょうか。まあ僕の思いこみ。
何気に千葉の野田から茨城県へ異次元ワープでしたね。まあ、チーバ君の鼻先ですから、鼻息で簡単に飛ばされたのでしょう。
以下の写真、境大橋を通り、県境を超えて「境町」に向かいます。

チーバ君がささやきます。
「実はね。私の鼻の先、関宿城博物館の先は、茨城県猿島郡五霞町なのだよ…」
ええええ~~~!!????
チーバ君の鼻先は、実は陸地が削られ切り離されたものなのです。
関宿城博物館すぐに県境があります。茨城県猿島郡五霞町。
チーバ君の鼻は、実は整形手術…?
いや、鼻くちょ、もとい鼻ちょうちんをチーバ君が鼻息で飛ばしたという設定でいきましょう!
なぜか沖縄コーナーも。

川を象徴とする食材が売ってました! 鯉となまずです。
鯉は、肉食が禁忌だった江戸時代の川辺の人々の貴重なたんぱく源。栄養満点のスタミナ料理ということで、特に妊婦や成人病の対策にもなるものです。なまず料理も近年見直されてますが、いつか埼玉の吉川にて洗練されたなまず料理を楽しみたいもの。とりあえず佃煮っぽいものを買いました。

さて、なんやかんやで8000字も。実はすでに取材済みの、野田郷土博物館と流山市立博物館とその周辺も、ちゃっかり描こうと思いましたが、負担になってはいけませんのでこれくらいで。
もちろんこのあと、チーバ君の耳である銚子にも向かってます。(先日ここを旅したもので本来はここをメインに描く予定でしたが、過去に取材済みのチーバ君の鼻先の関宿と野田もついでに描こうと思い出したもので)

過去記事のツギハギなので、実際はチーバ君の鼻から耳へ向かってませんが、チーバ君の頭部を鼻から東部の耳へ虫が駆け巡るフィクションの設定にいたします。チーバ君の鼻to(と)耳へ、ぐるぐるぐるり!!

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