ノーム・チョムスキー氏による「人間の生命と人格について、科学的な心理学よりも小説のほうが、より多くのことを教えてくれる」という主張についての個人的見解

はじめに、この問いの社会的意義として、多種多様な社会を構築する上での個人的知識の理解が挙げられる。
今日の社会において、個人と他者の性質が異なる事例、いわゆる多様性は広く認められており、特定の社会に共有された知識への疑心が育ちつつある。
他者の持つ考えへの理解を示すことで、新たな見解を発見し、自他の知識を兼ね備えることは個人の成長に繋がるだろう。

それを考えた上で、以下を論じてみよう。

さて、そもそも「人間の生命と人格」とは、限りなく特定に難しい分野であるように思える。
「人格」とは「独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。」であるが、「人間としてのありかた」とは、なんとも大雑把な言葉だろう。
我々は倫理道徳を学び続けているが、それに付き従う人間は、どうあれ第三者から見て「人間としてのありかた」が確立されている者であるし、ただ、これらに反く人間もまた「人間としてのありかた」が確立されている。
他者を救済し、生命を尊び、法を犯さぬ人間と、他者を欺き、生命を害し、法を犯す人間とでは、確かに印象は大きく異なる。
ただ、それはあくまで我々が持つ個人的知識や共有された知識によって判断されているのであって、「正しい」人間としてありかた、「誤った」人間のありかた、というのは、特に共有された知識によって善悪の裁量がなされているわけである。
その上で「人格」とは、周囲の他者に対する自らの言動で決定され、また他者による評価によってのみ存在し得るのである。
社会奉仕や、共有された道徳観に沿った善行によってその者の人格が構成され、「人格者」などといった一方的な印象づけをされることが多い。
まったく勝手な話ではあるが、とどのつまり人格とは共有された知識に帰属するのだ。

これを踏まえて、科学的な心理学と小説ではどちらがより多くのことを教えてくれるのか、という問いに戻る。

まず心理学であるが、とはいっても心理学も多様なもので、そのうちには基礎心理学と応用心理学のように分類されている。
源流となる精神分析学にはフロイトなどが開拓した「意識の存在」や神経症など、今日の精神医学などに通ずるものがあり、また行動主義心理学には「条件反射」で知られるイワン・パブロフが開拓したものがあるが、何であれそれらは人間の心のはたらきや、その心がどのような時にどういった行動を採り、身体はどのように反応するのか、といった心身行動のメカニズムを科学的に解明する特性を、心理学という一つの共通点として持ち合わせている。
我々と密接な関係にある臨床心理学は、個人の心を理解し、社会福祉に活かさんとして個人に対して様々な統計を取る訳であるが、これによって引き出された結論は即ち個人的知識が統合された結論であり、これ以上ないほどの妥当な、不確定であるのは間違いない回答例なのである。
私は、心理学の十割が純粋に事実を連ねた科学分野である、と言われれば、否定せざるを得ないと考える。
これには高度な数学分野である統計学が作用しており、問いに対して個人が持つ絶対不変の事実が、個人的知識や、個人を取り巻く共同体に共有された知識による干渉を受けて統計の値が変動することが殆どであり、人文科学や社会科学といった人間科学分野にある統計学において万人が信頼できる統計資料の収集は難しいためである。
補足であるが、物理学や化学などの自然科学や、工学、医学、薬学といった応用科学も、同じく統計学を必要とするが、これらは自然法則、人為が加わっていない本質的な関係を導く方向にあるため、事実を特定し易い性質を持つ一面がある。

そして重要なことは、科学的な心理学は一つの学問として分類されるため、我々に共有された知識と成るということである。
科学的な心理学の構成要素であった個人的知識が統合された結論は、その結論によって決定された情報が我々の共有された知識と成り、もしかしたら事実ではないことを含む統計の平均値が普遍的な答えと位置付けられる。
多様に共有された人格を認めているはずの心理学が、新たに共有される人格を、既存の共有された知識によって妨害する可能性がある。

だだ、忘れてはならないのは、心理学は臨床心理士に代表されるように、個人の心を理解しようと努め、その本質的な問題点とできる限りの妥協策を追求している。
我々が学校教育において享受している現代国語のうちに「作者の気持ちを答えよ」という問題があるだろう。
「気持ち」そのものには、その者の主張や、読み手に伝えたい内容が包まれているが、これは如何にも臨床心理士の真髄に触れているのではないだろうか。
そういった点で、心理学と小説は同じものである。
我々が科学的な心理学よりも小説に惹かれるのは、書き手の持つ個人的知識や、我々に共有される人格が小説そのものに反映されているからである。
無論、共同体によって共有された知識に基づく共感が多いことも真実であるが。
そして我々はそれを、感情と記憶によって知ることになる。
そういったものを書き手が意識的、無意識的に詰め込んだ小説は、確かに我々から見て馴染み易いものであると言える。
逆に、書き手の持つ暗黙知などによって個人的知識が共感されないこともある。
また、書き手の属する共同体に共有された知識と、読み手の属する共同体に共有された知識が相反することで、全く理解し得ない小説が存在することもある。
例えば、日本という社会から見たイスラム社会やヒンドゥー社会などの特定の社会において、他の特定の社会に共有された知識を真実だと認めない者は、それを知識として見ていないかもしれない。
小説とは、書き手の個人的知識を表現したり、書き手を取り巻く共有された知識を冷酷に分析したものを、一方的に発信している。
これに対して読み手は、そのまわりくどい個人的知識の発信に一喜一憂する訳であって、書き手が求める共有の、受け手となっている。

我々が、僅かにでも「人間の生命と人格について、科学的な心理学よりも小説のほうが、より多くのことを教えてくれる」と考えるのは、小説において書き手と読み手の持つ知識の共有が発生することによって、個人が持つ感性に作用し、必然的に人間の心について考えるからである。
科学的な心理学と小説の違いは、我々に対する共有された知識としての発信であるのか、あるいは個人的知識としての発信であるのか、という点であると考えられる。
果たして、小説の方がより、我々が手に入れることのできる情報量が多い。
たとえそれを構成する内容のうち、本筋を着色する要素が過半数を占めようとも、むしろ我々はある種の親近感を抱くはずなのだ。
歴史の教科書と児童向け歴史学習漫画の情報を、全く同じ質、同じ量で構成してみるとどうなるか。
歴史の教科書は淡々として端的に伝達する分、頁が少ないであろう。
児童向け歴史学習漫画は如何に情報を理解させようかと試行錯誤するため、一部の有識者からすれば省略できる内容を遠回りに伝達するかもしれない。
学習するにあたって、このどちらかを選択するのかは、情報の本質が同じであるため、全くもって個人の自由である。
対して我々は多様性という言葉を知っていて、それを守らなくてはならないという知識を持っている。

科学的な心理学と小説、構成する性質を詳細に比較してみても、本質は同じものである。
「より多くのことを教えてくれる」という点において、発信の違いによって小説の方が我々と親しみ易く、その分「多くのことを教える」ということであれば賛同するが、情報の量や質を踏まえて「多くのことを教える」という意味合いであれば、賛同できない。
「人間の生命と人格について、科学的な心理学よりも小説のほうが、より多くのことを教えてくれる」ということについて、私は肯定するが、一方で懐疑的でもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?