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『なぜ、植物図鑑か』を読んでから撮った写真

久しぶりに熟読。写真について学びたいという知識欲求を軽々と粉砕してくれるスルメ書(1970年前後の評論集)

異質な写真家・中平卓馬の日本写真論。(欧米:西洋哲学世界側の目線から見ると)日本の芸術家は哲学的な主張を持つ個性を持ち合わせている人がいないといわれているが、中平卓馬は日本が生んだカオスである。

要するに、写真表現=イメージとは個人が持つ「世界はこうあるべき」という歪曲されたものであり、それが芸術として評価される時代は終わった。

・・・というのが中平卓馬の主張。

「あるがままの世界」を記録することが写真であり、個と世界の間に絶対的な分水嶺を認め、そして人間の絶望的な敗北を認めたうえで撮る写真、それこそ現代人が目指すべき写真であり、その例となるのが「植物図鑑」だ。

植物図鑑の写真は、あるがままを伝えるためだけに撮影されている。

図鑑とは、その対象をあるがままに、何のムダもなく撮影することが求められている。

例えば図鑑に猫の写真はあれど、「悲しそうな猫」の写真はない。

これが中平卓馬が目指す「あるがままの写真」であった。

ということで、今回は額面通りに「植物図鑑」的撮影観で道端の草花を撮ってみた。


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以上、植物図鑑的撮影による写真であった。

中平卓馬がいうような完全な個の排除された写真ではないと思う。

しかし個のイメージなくしては撮影はできない。個による世界の歪曲を否定した場合、行き着く先は「撮影行為自体の否定」であり、写真そのものが存在できなくなってしまう。

結局、中平卓馬も、盟友森山大道も、自らの「プロヴォーク」の否定後、スランプに陥ることになる。

この本を読み終えてから、できるだけ個人的なイメージを廃した写真を撮ってみようと思った。

しかし、何のイメージもなければ撮影は不可能だ。ただファインダーを見ずにシャッターを切ることすら、そこにはイメージが付くし、そもそもそれは戯言の類だろう。

なので、ある一定のルールを決めてみた。中平卓馬のように、望遠で対象を「あるがまま」に写すという「行為」を真似してみようと思ったのだ。

中平卓馬が「アレ・ブレ・ボケ」で世間を驚愕させた自らの手法を完全に否定し、そして転向した先の写真哲学を体感してみようと思ったのだ。

ということで、今回はできるだけ対象をあるがままに写すために、カメラの設定はスタンダード・F8固定のままJPEG撮って出し、レンズは100mm前後の望遠寄りで撮影した。場所は近所の散歩コース。

※写真はnote用にリサイズしています。


そんな意識でプラついてみると、「個人のイメージ=世界を歪曲」というのも、あながち間違ってはいないと感じた。

「世界はこうあるべき」というイメージは、例えば「写真にしたらかっこいい」「〇〇はこう撮るべき」「SNSでウケそう」「部屋に飾りたい」「構図に奥行きをもたせたい」「前ボケさせたらきれいそう」などなど、中平がいうような世界よりも人間中心主義的なイメージが優先される。

中平は、ここに近代社会・資本主義的な「臭い」を感じ取ったわけだ。

実際撮ってみると、案外難しい。とにかく気になったところを、あるがままに撮ってみた。だが、そこには写真撮影の基本的な手法という前提、そして自分が気になった=自分のイメージに沿った写真を求めた行為なのは否めない。

だが、植物図鑑的な写真を自分なりに考えてみた結果、ご覧の通り縦構図ばかりになった。

そして、対象とカメラをできるだけ平行にして、非立体的に写すというのもやってみた。

最近の流行の写真であれば開放で前ボケなどを駆使して奥行きを意図的に作ったりするが、今回はできるだけ無心で撮ったつもりである。

こうして見返してみると、つまらない写真というよりは、記録的要素がかなり濃厚な写真のような気がする。

デジタルカメラが主流の現代において、こういう写真は真っ先に捨てられるだろう。しかし失敗写真でもない、「イメージがない」というイメージがあるような気もする。

良い写真、優秀な写真ではないが、良い意味であっても気にならない写真かなと思う。

ついでに上記のバケツの写真や柑橘類の小さな実が転がっている写真のように、明確なイメージが入りやすい写真も撮ってみた。

でもできるだけ、「こう魅せたい」というイメージ先行にならないように心がけたが。

こうしてみると、やはり中平がいう理想の写真はかなり難しい、というよりもそれは写真ではあるが写真ではなく、ただの紙に印刷されたシミのような感じかもしれない。

だが中平の予言は当たっていて、昨今の写真界の潮流はこういった「何でもない景色」を撮ったものが『人気作品』となっている。

個の解体された世界をさらに解体した写真こそが、現代で高額に取引されている「ウケる」写真なのだ。

これこそ、中平が旧来の芸術写真に挑戦しようとして生み出した「プロヴォーク」のような前衛的な写真が、すぐさま消費されて「商品としてのイメージ」にされてしまったことと同じ轍を歩んでいる。

中平が資本主義経済に消費されてしまったプロヴォークの理念を否定し、目指した「植物図鑑」は、同じように商品として消費されてしまったのだ。

これは哲学的な止揚のようなありがたいものではなく、大量消費社会とのイタチごっこのように思える。

しかし「個のイメージ=世界を歪曲している」というイメージは、現代でも警鐘に値すると思うのだ。

今回の撮影でも、一枚の写真を撮る上で、様々なノイズが脳内を錯綜していることが意識できた。写真=表現=自己承認欲求であり、そこにSNSなどを通したノイズが入り込む。

「模写」はまだしも「寄せ」なる写真、それこそウケる写真でありバズる写真ではあるが、その先には中平が否定した「世界はこうあるべき」が佇む。

表現と創出を分けて考えなければ、そこに大きな過ちが生まれるのだ。

そんなことを教えてくれているという解釈で、この難しい単語で彩られたア・プリオリな本を読んだ。

撮影した感覚は、なぜか新鮮だった。近所の見慣れた景色であるが、逆にいうとそれだけ何気ない撮影行為にもノイズやフィルターに覆われていたのだ。

ということで、普通の写真に飽きた、もしくは非主体的な撮影にうんざり、さらにア・プリオリな撮影がしたいという方には必見の写真論です。

今度はフィルムカメラでこの感覚を大事に写真撮ってみたいと思います。

いや~写真はおもろいな。

もちろん、中平卓馬のいう写真論が全てというわけでは決して無く、むしろ極端なベクトルを走る写真論を学ぶことで見える世界というのもあるわけです。


例えば中判カメラ背負って山に登ったり・・・


もしくは高級フィルムで感光を・・・


こんな世界もあるんだから、カメラはやめられない!



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