プラウベルマキナ67持って登山してみたので、1ロール写真作例全公開!
前回の記事でプラウベルマキナ67(PLAUBEL makina67)の、中判フィルムによる破壊的な世紀末写真の威力によりドーパミンドバドバになりましたので、山に持っていくことにしました。
プラウベルマキナ67といえば「山」です。
なんせ高さ115mm、幅162mm、 奥行56.5mm、重量1250gという中判カメラではありえないコンパクトさと軽量さ。
中判フィルムを登山などのアクティビティで楽しむには最適のカメラであり、だからこそ中古市場でも伝説的なプライスなんですね。
それを物語るのは写真家の石川直樹さん。石川さんはエベレストやK2などのヒマラヤ登山という過酷な環境でプラウベルマキナ67を使っています。
今回はヒマラヤ山脈・・・ではなく、島根県にあります三瓶山に行ってまいりました。
フィルムはフジカラーPRO160NS、6×7なので10枚撮りです。
登山とプラウベルマキナについて、そして1ロールの写真を一挙公開してみます。
1枚目、快晴の三瓶山8合目です。
なぜ1枚目が8合目か、それは10枚しか撮れないからです(笑)
10枚という撮影枚数は、『ここぞ』という時にしか使えません(主に経済的理由)
よって、自然と僕の目はプラウベルマキナ67のレンズ「ニッコール80mm F2.8」=35mm換算で約40mmという焦点距離に固定され、その瞬間を捕らえる狩人になります(主に経済的理由)
ということで、登山序盤の樹林帯の中では結局一枚も撮りませんでした。
そして捕らえたのがこれ。中判フィルムの高画質と立体感を実感するにはもってこいの構図。
10枚しか撮れない=登山前から欲しい構図をイメージしているんです。デジタルカメラではまずありえません。デジタルカメラなら気に入ったら撮ればよいし、あとで捨てることも調整することも可能ですからね。
収差が殆どないレンズなので、F8で写真真ん中より少し下にピントを合わせて撮影。
風による手ブレが怖いですが、しっかり絞って撮りたい。しかも青空との対比も欲しい。そんな贅沢な一枚。
やはり奥行きがすごく立体的に写りますね。それでいて前後の灌木の枝がしっかりと描写されている。
う~ん、中判フィルムすごい、ニッコールすごい。
2枚目は振り返って一枚。
三瓶山は草原の維持のために野焼きをします。牛を放牧とかしてますしね。
なのでナスカの地上絵っぽい今の時期は面白い写真が撮れます。
辺り一面が火山の噴火による地形形成のため、ぬらぬらした低山や池があります。
プラウベルマキナ67はレンジファインダーカメラなので、厳密な構図を撮ることはなかなか難しいですが、まあいい線いってるかなと。
しっかり絞れば、少しガスっぽい景色も色潰れなく撮れますね。
そして男三瓶頂上。
春先の平日なので、登山者も5人くらいしかいませんでした。
三瓶山は山でいえば赤ちゃんくらい若い火山ですので、頂上部は不毛の世界、1000mほどですが灌木すらほとんどなく笹とススキが広がります。
この時期は、一面この景色。
一面の枯れススキと青空の対比が撮りたかったので、ほぼ完璧な条件でした。
密集乱立する超緻密なススキの原と、山陰らしいくすんだ青空、これこそ僕が求めていた光景。
そしてこれを完璧に撮るには、中判フィルムカメラが必要だったんです!
だから嫁さん、許して(笑)
ススキの原と登山者と日本海
男三瓶山頂上からは日本海が一望できます。なかなか日本でも珍しい構図だと思います。風衝草原と海が同時に見られるなんて!
35mm換算で約40mmという焦点距離なので、風景写真では扱いづらい画角、中途半端な画角です。
ですが、実際に自分の目で見ている画角に近いので、本当に自分が捕らえたいという衝動に駆られた瞬間を撮るカメラだと思います。
中判フィルムの高画質とニッコールのカッチリとした描写、まさに自分が見た世界をフィルムに焼き付けることができます。演出なしの完全に自然と同調した景色を写真として残したいわけです。
撮りたいイメージを創るというよりは、撮りたいイメージが合致した自然に合わせるという感覚ですね。
なので中判フィルムとこのレンズの相性、そしてこの携帯性、これぞ僕の求めていたカメラなんです。高かったからね(笑)
昼食、プロテインバーより薄い中判カメラなんてこの世にあるのかい?
稜線の風の中で蛇腹を繰り出すのは少し勇気がいりますが、片手で持てます。この携帯性、プラウベルマキナ67は中判カメラ界のiPhoneですよ。
登山中はこまめに糖質と水分を取り、中途にタンパク質を取りましょう。
さあ腹も満たされたので、久々の登山で足がブルブルですが、撮影登山続行です。
やはりこのカメラ、絞れば絞るほどキレッキレですね。F16 だとキレッキレのカリッカリ、それでいて収差はなし。
Lプリントしかしていませんが、プリントでもキレッキレのカリッカリです。
でも中判フィルムはやっぱり大きくプリントすべきですね。今度、A4くらいでプリントしてみます。
そしてこれが当初から撮りたかった『写真』
これ撮るために中判フィルムカメラ、そしてプラウベルマキナ67を買ったんです。
プラウベルマキナ67の携帯性、「ニッコール80mm F2.8」、6×7で10枚しか撮れない(僕の経済状況)、これ全てが揃って初めて「撮りたい写真」を「撮りに行って」「撮れた」と思います。
今までの僕にとって写真=記録でした。ですがプラウベルマキナ67を手にして、初めて撮りたい光景を撮りに行きました。
様々なハードルを超えて成り立つ中判フィルムカメラだからこそ狙えた一枚です。マニュアル撮影、撮って出し一発勝負で、自然を相手に天気と有給の折り合いをつけて。
個人的に、写真は記録という前提を置きつつも、自然をそのままありのまま撮りたいと思っている方です。
最近はRAW現像なんかも楽しんでますが、やはり自分の本質的な嗜好はこれなんじゃないかなと思います。だからこそ、フィルムカメラが楽しいんでしょう。
男三瓶から子三瓶を望む。
アオッた感じになってますが、残念ながらアオリ機能はありません。自然のアオリ角ですね。
最奥の霞も潰さずに写っているところは驚きました。本当に見た景色に近い写真が撮れると思います。他のフィルムも早く使ってみたい。
子三瓶から望む男三瓶、山頂のススキの原がしっかり見えますね。
この若々しい山肌の良さがわかっていただければ幸いです。
こう見えても辺りの地形を根こそぎ変えちゃうくらい凶暴な火山だったんですけどね。
子三瓶頂上、そして雲。
ススキと笹が入り混じった一種グロテスクなわらわらした感じもカッチリ撮れてますね。
ただ高画質なのではなく、そこにフィルムの僅かな低コントラストの描写が加わることで、より人間の目に近くなるのではないかと思いました。
今度、モノクロで撮ってみよう。
最後の一枚
子三瓶から孫三瓶を見下ろす。
三瓶山は男三瓶、女三瓶、子三瓶、孫三瓶と溶岩ドーム群が連なります。
こんもり盛り上がった山は、頂上付近が比較的平らなので、写真にする時に距離感を活かしやすいと思います。
ここまで2時間位の登山ですが、プラウベルマキナ67の携帯性はかなり利便性が高いですね。
まず対画質の軽量性と携帯性に特化していますので、単純に山行を邪魔しません。機械式シャッターなので、故障しづらく、バッテリー切れの心配はないです。
今回は長距離移動時はバックパックに入れ、撮影毎にサブバックを取り出していました。ショルダー型カメラバックをサブバックとしました。
蛇腹カメラなので、この取り出し作業がかなり楽です。D750を持っていますが、一眼レフカメラはレンズが嵩張って取り出しが面倒でした。
その分、蛇腹は脆弱なので取り扱い注意です。
まとめ『プラウベルマキナ67の存在意義と現代社会』
今回は上述したように、自分の撮りたい景色を写真にすることができました。
まとめますと、
・中判フィルムとニッコールレンズの素晴らしい描写
・10枚という撮影枚数、経済的プレッシャー(涙)
・プラウベルマキナ67の携帯性
『高画質な写真を手軽に撮れるカメラ』があるからこそ、『撮りたい写真への欲求』が生まれたわけです。
単なる記録写真ではなく、超主観的に引き寄せられる写真を主体的な撮影によって手にするという工程は、カメラと人間の関係性の完璧な合致だったのだと思います。
要するに、『最高の自己満足』なのです。
デジタルカメラであれば、まず体感できない境地です、なぜならデジタルカメラはどこか心に余裕があります。最終的には機械が助けてくれるからです。
ですがこれは自分が本質的な部分で納得がいく写真にはならないと思います。もちろん、これは技術進歩による恩恵であり、最終的な詰めの部分、旧来のカメラでは成し得なかった機械=ツールとしての完全性を手に入れたわけです。
しかし、その先にあるのは「デジタルカメラでしか撮れない写真」=技術の追求になってしまうと思います。カメラが完成されたからこそ伸びしろが無くなり、可能性の先が見えなくなってしまったように思います。
残されたのは極小な部分での技術比べになり、要するに撮影行為は置いていかれてしまった、撮影行為自体は過程となってしまったのではないかと。
だからこそ、最近のデジタルカメラはスペック競争となり、そしてiPhoneに多くのユーザーが流れ、4Kや8Kフォトなどのカメラの存在意義を消し飛ばす技術まで生まれています。
これが心の余裕であり、人間を超えた機械・技術化したカメラというツールです。
その帰結が、プラウベルマキナ67のようなカメラがほとんど存在しなくなったという現状でしょう。
プラウベルマキナ67、これ資本主義社会においてまず売れないと誰でもわかりますよね。
ここにも書きましたが、プラウベルマキナ67はカメラ好きのカメラ会社の社長が超個人的な意志で作らせました。
カメラマニアが欲しいカメラです。まず需要はありません。でもこれはカメラに技術的な伸びしろがたくさんあったからだと思います。可能性が無限に感じられたからこそ生まれたカメラなんです。
もちろん時代は重要です。カメラは近代的な機械ではかなり歴史があるので、技術や表現が行き着いたというのは当然でしょう。
ここで書きましたが、プラウベルマキナ67とはカメラの可能性が無限に感じられた時代の機械式シャッターのマニュアルカメラであり、撮影行為=ほぼ完全な主体的行為になります。
露出計はありますが、撮影した瞬間、やはり不安を覚えます。露出合ってるか?ピント合ってたか?蛇腹ちゃんと出した?キャップ付いたままじゃないか?フィルム巻けてるかな?そもそもちゃんとフィルム入ってるかな?
このような不安を抱くの理由は、最終的に自分の行為にすべて責任があるからに他なりません。現像時の調整もそこまで効きません。さらに昨今、フィルムや現像代の高騰により、10枚の写真の(対清貧サラリーマンへの金銭的)価値が跳ね上がっています。
この責任と主体性、さらに経済的プレッシャー、これこそが撮影行為に意味を持たせてくれます。
撮影結果ではなく、撮影行為にです。そう意識した瞬間、脳のあらゆる物質が吹き出して、我々に自己満足感を、ひいては自分の存在を全肯定させてくれるのです。
なんせ現代社会において、一般庶民である我々は主体性が剥奪されています。すべての社会インフラが末端まで行き届き、世の隅々まで人工経済的な社会性を布いた結果、我々は原因と結果が不明瞭な社会に不明瞭な存在として放り込まれているからです。
自分が何のために働いているか、どこに所属しているのか、何をするべきなのか、これが答えられない人が大多数だと思います。
民主主義国家である我が国の最高意思決定機関である政府の「布製マスクを配る」という決断こそ、これを物語っているでしょう。あれだけエリート揃いの官僚システム、古代エジプトより始まった歴史あるシステムが人類の危機的状況で吐き出した帰結がこれです。
すべてがカオス、原因と結果が無限に広がり、宇宙のように広がり続けるシステムとなってしまった結果、人間は自分が何者であるかがわからなくなってしまいました。
そういう意味の世界の中において、プラウベルマキナ67というカメラの存在は、「プラウベルマキナ67」としか言いようがないんです。
可能性の行き着いた先でなく、まだ可能性がある時代のオーパーツですが、これだけの中古価格でふんぞり返っているのもそんな意味があるからです。
そして主体的な撮影行為は、自分の選択と決断への意味を求めます。その思考はこの便利な時代ではなかなかない分厚い工程であり、それでいて一本筋が通っています。
これが自己像を濃くし、撮影した瞬間に自分の意志と存在を明確に意識することができます。
今回、撮りたいイメージを創るわけではなく、撮りたいイメージを合わせに行ったと感じたのはまさにここです。
対象を自分のイメージで歪めるわけではなく、自分を合わせる行為です。昨今の技術進歩は生活を便利で高速にしてくれましたが、この思考の過程をぶち抜いています。
現代において、無駄とされる工程をあえて踏む、リスクを持って踏むことで、現代社会へのアンチテーゼ=自己像の承認が得られるわけです。
なのでフィルムカメラとは、反社会的なツールなんですね。
大量消費社会の到来は、資本主義的な精神をホモサピエンスの脳髄にまで染み込ませましたが、そんな状況だからこそフィルムカメラという終わった存在の可能性が復活したのです。
この聖者の生き返りのような超自然現象は、資本主義社会だからこそ生まれた現代の神話であり、だからこそ人間は機械式シャッターに生を感じることができるのです。
要するにですよ、長年の読者ならお気づきでしょうが・・・これ全部プラウベルマキナ67を買った言い訳なんですよね!
だってですよ、NikonZ6買えましたからね。SONYのナウいαシリーズのええやつでも良いですわ。そんくらいしましたよ。最新鋭のミラーレスカメラ買えましたから。動画だって撮れるし、めっちゃ連射できますよ。瞳AFって何よ?マジすげえ!
でもこれ買っちゃったんです。自分でも意味がわかりませんが、要するに負けたんですよ。単純に他人との差異が欲しかったのか、変わった人と思われて承認欲求満たそうとしたのか、中判フィルムのポテンシャルを知るのはこれしかなかったからなのか、それとも中国にフィルムカメラブームが来て値段が高騰したらなんていう投資目的か・・・
要するにね、プラウベルマキナ67を買ったのは僕の中のカオスな情報の海の中から突然変異して生まれたんです。日々の無益な労働に対するアンチテーゼという破壊的衝動が物神化したのがプラウベルマキナ67であり、そこに至るまでの脳内物質の錯綜は映像化したら面白いと思いますよ。
ここの構造を明確に数学式にしたら、ノーベル賞6個ぐらい取れますよ。
ということで、プラウベルマキナ67はかっこよくて、酒の肴にもってこいのナイスな野郎です!土井社長あざ~す!
あと登山に持っていくと最高!ヤッホ~!
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