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沢を撮りながら、カメラがオワコン化する未来を思う

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蒸し暑いので涼しい風を送ってくれる写真を。

友人と行った登山の際に、偶然見つけたナイススポット。

惜しむらくは三脚を持っていかなかったので、石の上に置いたりしてなんとか撮ってみた。


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デジタルカメラでしか撮ったことない長時間露光。

今度はフィルムカメラでもやってみたいんだが、すごい勇気がいる。

だいたい長時間露光は、一発撮りはできない。まあ僕の腕が大したことがないのが原因だが、それにしても昔の人はリバーサルフィルムで撮ってたというんだから体内露出計がむちゃくちゃ高性能なんだなあ。

今や露出計なんてカメラに付いていて当たり前、ISOも6400とか常用レベル、結局人間はカメラが生まれた時に露出計の必要性を知り、そして今は技術で克服して必要性を限りなくゼロにした。


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しかし、そもそも露出を計るという能力が近代までは不要だっただろう。

強いて言えば画家くらいかな?

カメラの登場により露出を厳密に把握する必要性が生まれ、その技術を失敗を繰り返しながらデータを蓄積して概念を規定し、さらに数値を小さく小さく原理化して、そこから得た知見から補助機械を作る。

要するに、

①新しい必要性が生まれる

②人間の能力でできるところまで試す。

③経験から全体を大まかに把握し、概念化する。

④概念からルールを作り、一部の人間が学習し会得する。

⑤大衆が使えるようにツール化する。

⑥ツールが人間の意識の介入を排していき、最後には人間が不要となる。


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文明・科学の発展というのは、一様にこんな流れだったのではなかろうか?

露出を知ることを知り、先駆者が経験を積み、経験を技術で応用し、技術が技術だけで立つ。

結局、人間から「露出を計測(数値化)する」という能力は不要となった。

いわゆるオワコン化だ。

そりゃ人間露出計なる人はまだいるだろうが、その長い時間と労力を賭けて会得した能力が簡単にボタン一つでできるのだ。

ということは「技術が人間の能力を超えるタイミング」とは、「その能力を習得するコストを上回った時」なのかもしれない。

これは技術により生み出されたモノを手に入れるコストが安くなり、一般に広まったことをいう。


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しかし、便利になっていくにつれて、その行為自体がオワコン化してしまう本末顛倒なことだってある。

それが現在のカメラ=撮影だ。

オリンパスのカメラ部門が売られるという衝撃的なニュースがあったが、カメラ業界全体の勢いが完全に失速しているのは誰でもわかる。

スマホは従来の撮影行為すら技術で追い越そうとしている。


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そのうちスマホで常時8K動画を撮って、AIが勝手に写真を選んで現像してくれる時代が来るだろう。

そうなれば、撮影技術は不要だ。現在のデジタルカメラですら絞り値や構図などは人間が選んでいるが、そんな技術すら不要になるかもしれない。

車の車載カメラみたいに常時360°撮影して、すべてをデータ化しておく。あとはAIが「あなたに気に入ってもらえそうなシーンを集めました」なんていってスマホに送ってくれる。

こうなれば撮影行為はオワコン化となる。なんせAIはまるでプロが撮ったような写真を提供してくれるのだ。

すると、写真の教科書みたいな本を読み漁り、たくさんカメラやレンズを買いながら失敗を繰り返して学んだ技術は・・・コストが高すぎる。


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すると一般の人達は、カメラを買うだろうか?

おそらく買わない。カメラは売れないと生産されない。資本主義経済。

そんなことあるか!と思うだろうが、デジタルカメラがここまでフィルムカメラをを駆逐するとあの当時誰が想像しただろうか?


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火を起こすために、最初期の人間は木を擦り摩擦熱を利用した。それが火打ち石になり、マッチになり、ガスや電気になる。

その過程で、火の起こし方の技術は廃れ、火打ち石やマッチは日常的にほとんど使われなくなった。あれだけ使っていた薪などの燃料も。

カメラも湿板やガラス板がフィルムとなり、現在はデータで写真が記録されている。全て失われたわけではないが、現在の写真はほぼデジタルデータ化されている。

カメラ自体も、カメラ・オブスクラからダゲレオタイプ、ライカ、一眼レフカメラ、デジタルカメラ、ミラーレスカメラなどなど進歩してきた。

その間に捨てられた技術や機能は山のようにある。

そして現在のカメラは、僕たちが思う「カメラ」が廃れてしまう転換期にいる。

スマホの普及により、記録という技術はこれ以上なく簡易で安価になった。

カメラが売れなくなったのは、カメラの記録という機能がコスト高になったからという至ってシンプルな理由であると思う。

カメラはスマホとの違いを明確にするために、高画質化・多機能化へのスペック競争へと進んでいったが、これは逆にスマホへの妥協を促しているようにも思う。


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初めてライカが普及した時、「こんなちっぽけなモノで本当に写るのか?」と当時の人は思ったに違いないし、「こんなのカメラじゃない」と古い巨大なカメラを使い続けた人もいるだろう。

だが、その後のカメラはライカを基本として小型化していった。

ライカショックはiPhoneショックと同じ構図だ。

ガラケーは消え去り、スマホは残った。

スマホという史上最強のツールを前に、カメラはどうなるのだろう?


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しかし、そんなオワコン化を理解しつつもあえて挑戦するという稀有な人間もいる。

僕はこの時代、あえてフィルムカメラを買った。もちろん露出計どころかオートフォーカスすらついていないフルマニュアルカメラだ。

そこをあえて楽しむというのも、人間らしさなのかもしれない。

カメラはオワコン化するとよく言われているが、今回の文章はそこへの反論である。

オワコン化=非主流派になるという意味だ。経済市場で。

ソロキャンプでメタルマッチを使い火を起こす人もいる、その動画が何千万回も視聴されるのが人間世界だ。

人間が合理的であれば、こんな現象はありえない。

カメラは経済市場の表舞台からは消えるかも知れない、しかしカメラは生き続けるであろう。

人間は経済合理性だけでは生きていない、そして多様性を愛する生物である。

記録という機能はスマホに奪われるだろうが、表現という機能はカメラが持ち続けるだろう。

カメラは意識的なツールだからだ。技術が排してきたのが意識であるが、カメラは完全に人間の意識を排すことはできない。

シャッターボタンが存在し続ける限り、それはカメラなのだ。



ということで、カメラはオワコン化するかもしれないけど、オワコン化したって使い続ける宣言でした。

こういう話になるとすぐに極論になりがちですが、たぶん今のフィルムカメラのようにプチブームを繰り返しながら生き続けていくでしょう。

平成狸合戦ぽんぽこの世界です。

カメラと意識の話をしましたが、カメラ沼にあれだけの人たちがハマるわけはやはり表現ツールだからだと思います。

現代社会がイカれているのは皆様おわかりでしょうが、この本来の人間の生活とは全く違う異常な状態の中で暮らし続けることは多大なストレスであり自己否定の連続です。

そんな中で表現行為というのは、生の肯定なのだと思います。

表現というと芸術のような高尚なものをイメージされるかもしれませんが、そうではなく「自分とはこういうもんだ」という確認です。

それは他者へ向けたものでもあり、でも一番は自分に向けたものでしょう。人間は自己を認識する際に、一度アウトプットして反応を見るという手間が必要なけったいな生き物です。

なのでカメラとは、現代社会での生活において必須アイテムだと思うわけです。

社会は非人間的なルールで雁字搦め、仕事では非生産的な生産性を求められ(要するに見えない労働)、空いた時間は広告と消費で埋め尽くされた現代。

カメラは現代社会だからこそ存在するんです。


だから半世紀以上も前のカメラだって使っちゃう。

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