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レンジファインダー考〜ライカM モノクロームで出雲大社をスナップ〜

前回の記事でライカM Monochrom (Typ246)購入の軌跡は須く語ったので、今回はライカモノクロームの真髄についてレビューする。

とりあえず、当たり前だがモノクロ写真しか撮れない。
びっくりするくらいそれしかできない。
言わずもがなそれ以上も以下でもない。
ジャック・ケルアックの小説に出てきそうなニヒルな潔さ。
アルベール・カミュの「異邦人」の不条理感。
こちら葛飾区亀有公園前派出所で両さんが逆張りしてそうな資本主義の闇商品。


パンツを脱ぎ捨てながら堂々としている異質なカメラ、それがライカM Monochrom。
カラーフィルターを排した不純物なしの混じりっ気のない白と黒のグラデーションだけの世界。
エグい階調である。人間の皮膚や服の質感はそのままに、破綻のないまどろむような白から黒への光の流れ。
今にも色が浮いてきそうな錯覚は、違和感のない立体感の為せる技か?
まさに陰翳礼讃、この画角の中にある全ての光の陰影をそのまま写し取る、そんな印象。


セメントのジャリっとした感覚、縄の重み、遠い山の木々に沈み込む光、漁船のアンテナのような消えそうでくっきり映る線、そして何より水の重力感、淀み対流する感じ、それが平然となめらかに写し取られている。
これは普通のカメラの解像度とは、尺度というかカテゴリが違う。
全く別物だ。しかし、よく写る。
うむうむ、ん?あれ?はあああああ?


センサーダストもエグくない?(右上参照)
マッ◯カメラさんよ〜センサークリーニングしたっていったじゃない〜
おのれ、レンジファインダーめ。さっぱり気づかなかったぞ(ルンルンで家に帰って気づいて桂三枝ばりに椅子から転げ落ちた)
しかし、この程度でガチャガチャ言ってはならぬ。
国産カメラではないのだ。ガラパゴスJAPAN基準の世界線で作られた製品ではない。センサーがブルブルなんてしたらライカじゃない!


まさかデジタルライカデビューが壮大なセンサーダストだなんて!
だが気にしない。これも写真なのだ。なんせこの場所にこのダストちゃんが存在しているという事実は、今この瞬間のあの場所でしか起こり得なかったのである。
さすがドイツ観念論を生んだ国のカメラである。哲学である。神は死んだのだ。
・・・そんな事も知らずに、八百万の神が押し寄せる出雲大社にやってきた。JAPANにはたぶんセンサーダストの神様もいる。


センサーダストの神様、見てくださいこの陰影の生んだリアルな幻想。
大注連縄に鳩が止まっておりますが、ゴリゴリぽっぽーに写っております。
神のお告げの鳩かもしれぬ。


昭和的御一行様を見るのはレンジファインダー越し、世界は色で彩られ、写真はモノクローム。
やはりレンジファインダーの所作というのは、撮影という行為への集中、否、没入とも言える。
一眼レフカメラとの違いは唯一つ。ファインダーから見える世界は、現実世界に浮いているだけなのだ。
一眼レフや電子ビューで見える世界は、カメラという機構に依存した景色。
謂わば閉じられた世界。
レンジファインダーは例えば右目でファインダーを覗きながら、左目は現実世界を見つめるということもできる。
世界は開かれているのだ。


もちろん、それは結果に対しては非効率でもある。
一眼レフタイプのファインダーは、写真という結果が「見えている」のだ。
カメラという過程から写真という結果までが映り込んでいる。
故に正確な構図とピント合わせ、そしてボケの感覚が閉じられ、パッケージ化されている。
結果が欲しければ、これ以上いうことがない合理的なシステム。
しかし、撮影行為のみに力点をおいた場合、結果という意識的にも無意識的にも引き寄せられてしまう正解という誘惑の重力に囚われてしまう。
100%現実世界での感覚に、有象無象の「正解」が入り込む。
これを技術と取るか、映えると取るか、雑音と取るか、そこにカメラ=写真という機械を通した体験への嗜好、いわんや性癖が炙り出される。


レンジファインダー越しの世界は、暴力的に現実である。
まさに感覚器→脳という認知過程の再現であり、だがそこにカメラという非人間の疑似認知機構が介在する。結果としての写真は、現実とは違う。いくら高性能になろうと、僕が見た世界を再現することは不可能である。
一眼レフタイプのカメラの機構に依存した空間を撮るという行為は、この認知的不協和を確信犯的に甘んじて受け入れている。
写真は欺瞞であり、装飾されて然るべき一種の技術である。
そこには写真を撮るという必然性を根拠とした世界への無関心があるとはいえないだろうか?
現実とされている世界とは別の、写真化することができる世界の中での技術的競争原理、正解への合理的な最短距離への執着・・・ではないかと。


レンジファインダーの唯一の利点は、「結局は違う」という確信である。
カメラという機構ではどうしようもない世界の本質的なグロテスクさへの降参である。
一眼レフのプリズムから「見させられる」世界は、技術的優位性により人間の感覚よりも意識・理性を全面に押し出してしまう。
レンジファインダー越しの世界は、世界の本質を感じながら「本質を写真にすることはできない」という妥協とともにシャッターを切るのだ。


レンジファインダーカメラは、本質的な世界を感じつつ、正確とはいえない構図とピント合わせに不安を感じつつシャッターボタンを押すのである。
そこにある感覚的な世界への対峙とそれによる技術的限界を同時に体感することにより、一種の諦めの境地がある。
技術により奢ることもなく、しかし世界の本質性への憧憬を忘れず、ただ撮影という行為に没入することができるのだ。
正解への誘導は、社会的な原理原則に打ち勝つことは難しい。
そのため撮影行為自体の軽視、優先順位の低下、そして「撮らされている感覚」に酔うことになる。
レンジファインダーカメラは、「撮る人のカメラ」であるといえる。
撮るのである。過剰な自尊心を本質的な世界の美しさと残酷さに突入させ、そしてたいていは見事に砕け散る。
その不毛な世界への自己の投影を厭わないシーシュポス的享楽を甘んじて受け入れられる人間こそが手にすることで完成されるカメラ、それがレンジファインダーカメラでありライカなのである。


僕のレンジファインダーカメラへの憧れとは、まさに「撮れないカメラ」であり、撮れないからこそ撮影行為自体に結果があるのだ。
撮影している最中こそ、このカメラの真骨頂。
結果など後で確認して良いものがあれば良いという程度。
そこには正解など後回しの、世界との剥き出しの対峙という瞬間瞬間への期待しかない。
その瞬間に出くわすことができないのが結果であり、また意図しない瞬間への咄嗟の反抗が望めるカメラなのだ。


オートフォーカスもなく、完全な構図の再現も困難で、さらにピント合わせもほぼ勘に頼ることとなる。
もちろん人機一体となるまで修練すれば克服できる事柄だが、それならば最新ミラーレスカメラを買えば良いだけのこと。
偶然性、まさに偶然性へのレスポンスだけが早いカメラなのだ。
意識された世界は過程と結果の連環でしかないが、感覚的な世界とは偶然性の集合体である。


偶然性が意識された正解というモーメントに縛られていると、結果論としての偶然(ラッキー)として処理されてしまう。
そうではなく、偶然は正解もクソもない世界でひたすら起こっては消えている。
偶然を発見しどう吟味するか、そこにはほんの少しの力加減で簡単に決めつけられてしまう社会的な原理原則が存在する。
それでは意識されるまでもなく過ぎ去っていく偶然という「もしかしたらあなたにとっての決定的瞬間」があったかもしれない。


レンジファインダーカメラの唯一無二の利点は、時代遅れとなった今だからこそ感じることができる諦めの「間」である。
正解への最短距離を走る最新ミラーレスカメラとは違い、諦めと達観、ちょっとした余裕、現実世界と虚構の相関への配慮、撮影行為主体の無意識と意識の間のまどろみ、その「間」が偶然性を偶然としてそのまま捉えることができる。


さらにライカMモノクロームはモノクロしか撮れない。
このために不便利で強烈な拘束力のあるこのカメラでしか撮り得ないタイミングが確実に存在し、さらにそれを逆説的に意識できてしまう。
もちろんその偶然の中の(カメラ機構由来の)選択的な偶然性を写し取ることは容易ではないが、一般的な「正解」とは違う嗅覚を得ることはできるのだ。


単純に技術と時間の相関関係から導き出される特異性といわれればまさにその通りなのだが、しかしこの「間」は現代社会において非常に稀な享楽であると思う。
現代をある速度と仮定すると、あらゆるものは行動経済的な力学でその最先端へ誘引される。速すぎても遅すぎてもならない。
だがレンジファインダーでモノクロ専用というこの過剰に異常なカメラの速度は、現代という速度の盲点に位置していると思うのだ。


それが善いという意味ではなく、シンプルに稀有なだけである。
その速度間が正解というわけではなく、単純に現代社会においてその速度を堪能できる機会がないということだ。
ライカのしたたかさはさすがである。国産ではSIGMAのFoveonくらいだろうか。
単なる異質は奇をてらっただけの俗物となるが、最先端ではない隙間にある取り残された感覚の残渣を掬うのは粋とされる。
こういった道具への憧憬は、如何に合理的となった現代でも通じるのである。


デジタルカメラがもたらした多くの恩恵は、類まれな恩恵によりやむなく捨て去られた感覚レベルの諸々を吐き捨てた。
その不要でコスパの悪い前時代的な感覚は郷愁となって、フィルムカメラを未だに愛でる人々もいる。
そもそも、写真を楽しむことが大衆化されたのもデジタルカメラのおかげであり、スマートフォンはそれをより普遍化した。
この量と質の関係において、すべてを取りこぼさない網は存在できない。
ある偏重はどこかで何かがこぼれることを意味し、それを掬うことはイタチごっことなる。


このもどかしさ故に写真に没入する者は苦しむのである。
量と質の関係は、写真の価値にも同じ現象を引き起こし、そしてその価値なるものは根拠のないネット広告のような代物であるのだ。
結局、速度や網やカメラの蘊蓄やライカの歴史や価格コムの宗教戦争やニコ爺やSNSでの炎上商法やらなにやらが散発的に偏在し、何となくの全体性を感じさせる程度に希薄な空間が現代の写真なのである。
各々が思う写真とは、各々が鎮座する場所とウェイトのかかり具合であり、それは夜空の星座のようなものなのだ。


それを言っちゃあオシマイよ論になってしまうが、写真はそこまで普遍化したとも言える。
だからこそこのライカM モノクロームは生まれたのだ。
そしてレンジファインダーがしぶとく生き残っている。
そこにあるのは、正解ではなく偶然性の中のある偶然。
意識される偶然とは、作られた偶然であるから、その人間は発見することができる。
ある人がこのカメラでそこにあったなんともいえない景色を撮る。
それはいつか見た一枚の写真に影響されているかもしれないし、子供の頃に見たアニメ映画のシーンに感化されていたからかもしれないし、SNSや写真コンテストでの功名心かもしれないし、このカメラであったからかもしれない。


レンジファインダーは、何となくの感触を頼りに自分だけの偶然へ近づけてくれると思うのだ。
そこにある自己の感覚優位の状態、そして目の前の世界とのありのままの対峙、悔恨のない諦めからくる余裕、それが導き出す写真という体験がある。
時代に取り残されたがゆえに新たな居場所を与えられたという消費はままあるが、主観的な技術的要素の強いレンジファインダーカメラは新たな感覚と体験の結合を見せてくれた。
正解のある写真、正解へ向けた写真を撮るのに不便過ぎる不快な機構は、それでしか撮る行為へ走らせない偶然の「意識できた偶然化」を与えてくれる。
ファインダーに浮かぶ白い枠、そこに写るものはいつもより気持ちクリアに見えるのだ。


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