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RICOH GRとLeica M Monochrom(typ246)、最高のスナップカメラとは?

RICOH GRとLeica M、スナップカメラの両雄、姫路城にて会敵す!!
ということで、2台のカメラを引っ提げて最高のスナップカメラとはなんぞやを考えながら、モノクロスナップに勤しむ。
スナップといえばモノクロであろう。森山大道、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョセフ・クーデルカ、エリオット・アーウィット・・・僕の好きなスナップ写真家はモノクロばかり、ということでカラーでエモいスナップ写真が好きな人はお帰りいただこう。

GRはカラーモード「ハイコントラスト白黒」で固定。このモードで撮影すれば、気分はプロヴォークの森山大道や中平卓馬、ニューヨークを徘徊するウィリアム・クラインになれる。

ライカはもちろんモノクローム。モノクロ写真しか撮れないカメラであり、究極のモノクロを目指すものか、究極の偏屈者しか持っていないカメラ。
都市スナップでのモノクロは、都市という喧騒からウェットな情報を削ぎ落とす、故に都市の人工物が人工物として写る。

都市は人間とその経済活動がなければ、一瞬で死に絶えてしまう自然であり、過剰な美しさを持つ花が虫を呼び寄せるに等しく、過剰な広告と過剰なエネルギー消費により都市は人間を飲み込んでいく。
しかしそれはすべて虚像でしかなく、経済的繁栄や文化的なものの象徴としての諸々の建造物やアート作品は、つまるところ数字の羅列に過ぎない。
このように脚色され、しかも確信犯的に享受している虚構を、モノクロ写真は機械的に剥ぎ取り、洒落た設えの流行りの店の壁はただのコンクリートとしか写らないのである。

GRの過剰なまでの黒と白の分断は、(森山大道という記号に犯されながらも)細部に宿る虚像を物理的に潰し、漠然とした雰囲気しか残さない。
時間はより静止させられ、人間はより動物として、人工物は単に人工物としてそこにある。

ライカMモノクロームのモノクロ写真は美しいグラデーションが特徴である。色が存在しないからこそ、より写されているものに対して正直な描写になる。
ライカMモノクロームの写真がより立体感が増しているように思えるのも、思い切った情報の削ぎ落としにより、虚像により塗りつぶされている「線」が冷静に垣間見えるからであろう。

GRは28mm、ボタン一つでシャッターが切れる、スマホのように軽く小さく見やすく、そして欲動のままに撮ることに特化している。
ライカMモノクロームは、ズミルックス35mm、レンジファインダーを覗き、少々面倒くさいピント合わせのあとシャッターを切る。マニュアルフォーカスで、かなり慣れないと諸処のミスを連発する。
ノンストレスのGR、ストレスフルなライカM、この中間が昨今の便利なミラーレスデジタルカメラであろう。

GRはノイズの少ない反射的な撮影が可能であるが、写真へ自己意識を介入させる自由度が少ない。謂わば機械に90%まで身を任せている。
ライカMはGR的な使い方もできるが、撮りたいという自己意識に諸処のライカ作法を練り込んで写真を撮る。そこには「間」が生じる。
最新のミラーレスデジタルカメラは、GR〜ライカMまでのあらゆる撮影方法が何でもできてしまう。自由過ぎるが故に、結局は「便利さ」が支配的になってしまう。

GRとライカMに共通するのは、「諦め」である。
GRは、細部を写したい、被写体をより意識的に写し取りたい、そんな欲求は諦めなければならない。あくまでもGR的な画に囚われている。
ライカMは、完璧な構図や完璧なタイミングは諦めなければならない。アンリ・カルティエ=ブレッソンですら、決定的瞬間はトリミングされているのだから。

両者に言えるのは、「諦め」という成約がもたらす「ある特定の感覚」への恭順であり、逆説的にその感覚に適応せざるを得ないからこそ享受できる感覚的な写真である。
便利なカメラは何でもできる、故にカテゴリや技術的制約に囚われない、だからこそ大きなストーリーに囚われる。自由すぎるが故に、制約を求めて「正解=流行」という大きな流れを必要とする二元論の世界だ。
そんな写真は、ある程度の知識と技術と、あとはその場所にいつ行くかが問題であり、普遍性を持つが故に結果のある写真を求めるようになる。
それはそれでとても良い時代になったと思う。かつての技術的制約の中では、現代のように誰でも好きな写真が撮れるという簡単な話ではなかった。
GRとライカMにもたらされる「諦め」と「制約」は、そういった大きな流れに乗ることが本質的に困難である。
もちろん技術的制約を超えることもできるが、それなら便利なカメラを買うのが現代では肯定されるだろう。

GRとライカMは、そのカメラ自体から逆算された感覚により世界を見る。
意識的な写真を撮っているにも関わらず、カメラに囚われている。
この奇妙な感覚は、かつては当たり前であった。現在、オールドデジカメやフィルムカメラが流行しているのは、その時代の郷愁を超えた身体的感覚への渇きであろう。
GRとライカMは、そのデザインや思想が長らく変わっていない。ライカMなどは半世紀を超える歴史を持つ。
写真を撮るという行為に宿る身体性は、現代はおもしろいことにカメラ自体に宿っているのである。

僕のような偏屈者は、このような身体性を宿る道具が好物である。SIGMA fpやFoveonセンサーカメラ、諸々のフィルムカメラのデザインに宿る身体的感覚を愛しているのだ。

やっと本題だが、スナップはまさに反射、意識と身体性を瞬間的に写真という枠にはめ込む行為である。
そしてスナップに求めるものは偶然性である。
「偶然」に「良い写真」が撮れた。
スナップといえばこの感覚を求めている!といっても過言ではない・・・という方々が多いのではなかろうか?
初めから撮りたい結果があるわけではなく、偶然と遭遇し、かつそれを写真にしてしまおうという画策、これがスナップ写真だ。
偶然との遭遇の際に、先程の身体性が宿った感覚でシャッターを切る。
そこに大きなストーリーは必要なく、ただ感覚的に遭遇を遭遇とする。
ここに制約があることで、無駄な意識の去来に邪魔されない。
便利なカメラでは、ここに「正解」という方向性が去来する。
何かしらの引力に影響されない写真は存在しないが、カメラの持つ制約に影響された写真は、より自然状態であると思うのだ。
この道具からの影響をどうみるのか?これこそカメラを選ぶ際の指標とするべきであろう。もちろん正解はない。
だが、より自然状態で写真が撮りたいという欲求は、そもそも写真を撮る行為のメタ的欲求である。
行為の結果であるはずの写真に、行為以前を求めるのは二律背反である。
多くの写真家が晩年にこの境地を見出し、そして大体が敗れ去るか他の表現方法へ流れてしまうのは当然の結果と言えるかもしれない。
だが、そういった大きなストーリーの外で活動したいというのは、ちょっと偏屈な現代人には総じて共感できる欲求ではなかろうか?


よって最高のスナップカメラとは、あなたの求める感覚を宿すカメラである。
という本末転倒な結果だがお許しいただきたい。
だが、世の中には大判カメラでスナップ写真を撮る人間も存在する。
そうとなると、スナップ写真とはなんぞや?
そうか、スナップの概念はそもそも写真から言わせると本末転倒なのか。


サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・