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ウジェーヌ・アジェへの憧憬〜Leica M Monochrom(typ246)で商店街を撮る。

つくづくこのカメラ、Leica M Monochrom(typ246)は路上を撮るカメラだと思う。
割りとポピュラーな被写体、例えば観光地やモニュメント的象徴を撮るとなんだか気の抜けたモノクロ写真になってしまう。
コントラストがやんわりしているからなのか?まあ、オールドレンズしか使っていないから、アポズミクロンならカリッとするに違いない。
して、このカメラ、なんでもない路上の風景、しかも人物のいない空虚ななんでもない路上を撮るのに適している。

ウジェーヌ・アジェにならんとすれば、これほど良きカメラはあるまい。
そもそもモノクロしか撮れないという強烈な縛りは、逆説的に写真の脱構築、そう、景色ってなんだ?良き写真を何故撮らねばならんのだ?日々我々は撮らされている存在でしかないのではないか?

そんな妄言が現実と異常とされるものの間を取っ払い、景観に漂う情報の羅列から、お行儀の良い常識的な教科書通りの写真と対面する羽目になる。
なぜなら、無軌道にカオスに無に写真を撮ろうという行為は、それが行為であるが故に行為自体を否定してしまう。
要するに写真を撮るという行為には、0〜限界が確かに存在しているのだ。それを超えようとした中平卓馬が苦悶の挙げ句写真が撮れなくなってしまったのは、行為という身体性が宿らない写真は、やはり写真ではないという現実が普遍的な人間の業という奴なのである。

現代アートの突破がシニカルに資本主義的逆張りにならざるを得ないのは、それが現代アートというカテゴリに属しているという特権的な立ち位置にあるからでしかなく、それはそれは需要と供給の方程式に黄昏れているのである。

まさしくそういった苦闘と衒いの狭間で、しかし朴念仁に写真を撮るために徹しているモノクロしか撮れないカメラ、やはりアジェの達観なのである。
名だたる写真家のアジェへの憧憬は、そういった達観を経ない達観した写真を何も考えずに撮りためていたアジェへの羨ましさであり、それはアジェの発掘によりもう体感できない「アジェ」になってしまったからだろう。
なんせアジェはアジェ以前にアジェであったのだから。


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