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映画『FALL』 現実と虚構の間をぶち抜くタマヒュン

映画とは虚構である。
某ノルマンディー上陸中のマンマ〜や、某グッドフェローズのカツラ男の死も、すべからく俳優が演じ今際の際の演出も含めて全て虚構である。
戦争映画ではらわたが飛び散ろうが、ホラー映画でテレビから女が出て来ようが、自転車籠の中のエイリアンが喋ろうが、ゾンビが爆走しようが、すべからく虚構なのである。
娯楽の多様化が限界突破し、生まれながらにしてサブスクで無限動画視聴している我が娘のような娯楽消費が当たり前となった昨今において、映画は文字通り消費であり、なんでも倍速で見ちゃうなんてこともあるとか。
かつて映画は映画ではなく、体験であった。
と、僕の祖母は言っていた。
しかし、ビデオレンタル世代の僕にとっても、映画は消費でしかなく、タランティーノ的消費をせっせとしていたものである。
そんなことは百も承知で、映画業界はよりリアルに、より体感的に、より刺激的に進化している。
虚構は虚構としてしか見物できない現代人には、虚構をよりゴージャスにしてしまえばよいのよ!とマリー・アントワネット的神の視点から破格の制作費で今も映画は作り続けられている。
だが、それも所詮は虚構、作り物である。そしていい加減飽きた。
某スーパーヒーローシリーズのように大金をかけようが、それはもはや新鮮な体験ではなく、「いやあ〜コスパ良く消費したなあ〜」感を増幅させるためだけのマーケティングの一環としか思えない。
そんなもはや人間のエゴに消費し尽くされた映画において、救世主が現れた。
そう、タマヒュン映画という新ジャンルである。

タマヒュンとは、男性のシンボルがヒュンとなる現象で、主に高所で発生する。
高所から下界を覗き込んだときに、ヒュンケルするのである。ジェットコースターの最初の落ちる瞬間にもヒュンケルする、あれである。
映画を少なからず見てきた私ではあるが、上述の消費物に成り下がってしまった昨今の映画には辟易していた。
もちろん良い映画はまだたくさんあるが、サブスク等により、映画を映画としてではなくコンテンツ消費としか感じなくなってしまった需要と供給のパラダイムシフトを体感した世代だからかもしれない。
だがこの「FALL」で感じたタマヒュンは、まさに現実のタマヒュンであったのだ!
もはや全てやり尽くされたと思われていた映画において、それでも現実と虚構の間をぶち抜いたのはタマヒュンだったのである。
もちろんクリフハンガー的なタマヒュン要素の映画はあったが、この「FALL」のタマヒュン度合いはインディペンデンス・デイ級である。
しかもこの「FALL」、超低予算なのだ。超低予算だからできたとも言えるが、「ソウ」のような超低予算という制限の中から生まれた映画である。

以下、ネタバレ
正直なところ、ストーリーは最高にB級である。
主要登場人物は2人の女性、ほぼ無名でありシンプルに金がかかっていないがとても良き女優である。
主人公は夫を亡くし悲嘆に暮れるベッキー、それを元気づけようとYouTuberでもあるクライミング仲間のハンターがある提案をする。
すでにB級死亡フラグがそそり立つ。
それは600mもあるテレビ塔へよじ登ろうぜ!という提案だった。
クライミングが趣味だからっていきなりそうなるのね。安定の無理矢理導入である。
ということで、早速立入禁止のテレビ塔へ。
今なら即刻涙の謝罪会見&住所晒され案件である。
頼りないハシゴを登っていくのだが、早くもこの映画のハイライト。
この頼りないハシゴを登っていく描写が絶え間なき小タマヒュンの連続なのである。
そして頂上に無事たどり着くと、そこからは怒涛のタマヒュン開放である。
あとはとにかく大画面で見て、しっかりタマヒュンケルしていただきたい。
ありえないストーリーは伏線回収でなんとか整合性が保たれた・・・に見せかけて、ありえないサバイバル術とどんな腹してんねんと疫学研究の道を歩む発端になったり、スマホのバッテリーが立派な硯くらいあるやろそれみたいなツッコミは置いといて、とりあえず見ていただきたい。


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