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撮らされる写真、桜

桜の季節が近づけば、「桜を撮らねば」というほぼ強制的な衝動によりカメラを手にする。
桜は春を告げる美しくも儚い美を持ち、そして日本の国花でもある。
我々日本人は桜の開花予想を待ち望み、天気予報をいつも以上に熱心に見ることになる。
故に桜とは、カメラを持っているのであれば間違いなく撮るべき対象であり、SNSでも#桜が咲き乱れる。


そういった桜写真だが、僕は正直なところ嫌いなのである。
なぜなら生まれ持った天の邪鬼気質が爆発し、桜の開花予想日が近づくだけで憂鬱になったりするものだ。
桜を撮らないという選択肢もないわけではないが、その儚い時間的制約と四季の象徴としての記号が「もったいない」感をこれでもかと植え付ける。
よって渋々カメラを3台も担いで桜を撮ったわけである。渋々である。
客観的に見れば喜び勇んで桜を撮る写真愛好家であるだろうが、心中はもったいないという損得勘定で突き動かされている自分にうんざりしているのだ。


さらにいうと、これほど撮りに撮られる桜というモチーフは、これでもかと「お手本」写真が世を覆い尽くしている。
冬の終わりかけには「うまく桜を撮る方法」なんかが雑誌やネット記事に溢れ、「いいね」や写真コンテストの入賞を求めて人々の欲が収斂していく。
これは限定品を買うための長蛇の列を思わせる。
その列には、純粋にその商品が欲しい人だけでなく、転売目的や単に自慢したいがため、娘に頼まれて渋々並んでいる・・・なんてこともあるだろう。
しかし、そういった悲喜こもごもを国民的行事的な共通感覚を強制的に享受させ、そこに殺到することこそ「自然」とする巨大な何かの力、そういったものが嫌いなのである。


だがしかし、桜を撮っている自分がいる。
しかも、奇をてらうわけでもなく王道の桜写真。
これぞまさに本末転倒である。
やはり桜の時間的制約がそうさせるのである。
厄介な花である。


そして何より美しい。


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