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平和は消費される美談ではない 『いま、〈平和〉を本気で語るには 命・自由・歴史』ノーマ・フィールド(岩波ブックレット)

『いま、〈平和〉を本気で語るには 命・自由・歴史』ノーマ・フィールド。

ふとしたときに読むのがいい岩波ブックレット。3年前に北海道で催された宗教者の会合で行われた講演を書きおこし・加筆したもので、大きなテーマの広い領域を射程としているためにハイコンテクストなところ、話題が飛ぶところ、言葉が足りないところがあるものの、芯は伝わる。

「逆さまの全体主義」という言葉がキーとなっているが、やや僕にはわかりづらく、別の角度から思ったこと。

冒頭に、日本において8月だけ戦争(と平和)についての報道が、言説がなされることへの疑義に触れられている。「一年のうち十一カ月は戦争のことを考えない人たちが八月になるとテレビや新聞で戦争について振り返らなければならない。そこになんの意味があるのか」。

平和は「退屈」か、という話が後段にでてくるように、これは人は生きるに不可欠なものほど忘却して生きていることを伝えたいのかと思う。が、それだけではなく、戦争と平和が消費される季節ものになっていることへの疑義も含むと思う。クリスマスが、消費のために消費される単なる季節もののイベントになっているように。

近年は、戦争をまつりあげる美談も増えている。特攻隊云々とかね。ただそういった単純・浅慮なものだけではなく、戦争って悲劇だよねー、いけないよねー、だから平和な時代に生きる私たちは平和を大事にしなきゃ、感謝しなきゃ、みたいな言説についても疑義が呈されているのではないか。

それは戦争と平和を他人事ととらえ、平和な場所から戦争を思いやるという美談に自分自身が気持ちよくなっているだけかもしれないから。

8月にはそんな美談がいっぱい消費されて、たくさんの人が気持ちよくなっているように思う。

"途上国"支援とも似ている。

豊かな場所から貧困の途上国を思いやるという美談に、多くの人が気持ちよくなっている構図に。途上国って貧困だよねー、かわいそうだよねー、だから豊かな国に生きる私たちは手助けしなきゃ、支援しなきゃ、みたいな言説 。

本のなかに復興のこと、福島のことも書かれているが、この構図・言説・美談は復興にもあてはまるだろう。

"途上国" については、エアCOOとして関わるproud storyの「かわいそうだね」から「すごいね」へ、が良いアプローチと信じているのであまり触れず、平和について。

いま平和を本気で語るには、平和を8月に消費される美談のままにしていてはいけない。

「貧困の反対は富ではなく、正義だ」という神学者の言葉が紹介されているが、平和の反対語は戦争ではなかろう。過労死や不登校に触れた章があるように、そしてDVや“マイノリティ”の生きずらさのように、日常生活内でも平和は脅かされて、脆くも崩れる。それが崩れたとき、その人も崩れる。

エシカルについて話すとき、私たちは1人ひとりが解決の一部として当事者になろうと伝えるが、平和についても同じこと。いやよりその当事者性は強いはず。

平和は消費される美談ではない。いまそこで、私たちが取り組み続けることとして語るもの、それは誰にもできること。

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