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『ちょっと思い出しただけ』を観る人へ贈る『ナイト・オン・ザ・プラネット』の映画論

『ちょっと思い出しただけ』が2022年2月11日に劇場公開されました。
そこで作中のインスピレーション元のジム・ジャームッシュ監督作品『ナイト・オン・ザ・プラネット』についてお話をしたいと思います。正直『ナイト・オン・ザ・プラネット』を知らなくても上記映画は十分楽しめますが、ロサンゼルス編だけでも観ておくとなんかちょっと変わってくると思います。あとジャームッシュが残した主題について意識して観ると、少し主人公たちの気持ちに寄り添えるかもしれません。
※以下は『ナイト・オン・ザ・プラネット』の解説及びネタバレになりますので、望まない方は見ないでおいて下さい。


 5つの挿話でできたオムニバス集ともいえる『ナイト・オン・ザ・プラネット』原題は『Night On Earth』(『地球上の夜』)。世界で同時に起こる5つの喜劇を集めたものである。この作品は、ジャームッシュの異なる都市のタクシーの中で起こる事象を表現したいというアイデアからくるものである。物語はロサンゼルスで始まり、ニューヨーク、パリ、ローマ、最後にヘルシンキへと移り変わる。作品は主に、タクシーの中という閉じられた空間の中で共有される運転手と乗客との人間関係で構成されている。ある一定の目的地まで宙づりにされる時空間を描き出している。


すれ違い


 「目の前にあるものを人は見ることがない、という主題がある」とジャームッシュが言うように、各パートはそれぞれ登場人物の価値観、言葉、性格等のすれ違いを描き出している。そして、先述の主題を描く意味でも、パートは各々独立して異なる場所で起きていながらも、交差することもない。閉ざされた空間での人間関係の閉じかけたコミュニケーションを描き出している。以降、各パートでどのようなすれ違いが起きているか見ていきたい。

ロサンゼルス―価値観のすれ違い


 ストーリーはターミナルから女性の住むビバリーヒルズまでの車内を中心にすすむ。ウィノナ・ライダー演じるタクシードライバー・コーキーと偶然居合わせた、配役のエージェントをしているヴィクトリアは、勧められるまま彼女のタクシーに乗る。荒っぽくトランクへ荷物を積む。アドレス帳を後ろに積んだ荷物の中に忘れるも電話帳を貸す。仕事の電話中に音楽を大音量でかける。ドライバーのこれらの行為はある種善かれと思っての行為であるが、いずれも乱暴で客の心理を「読み欠いた」ものであり、ヴィクトリアの思う「タクシードライバーのもてなし」とは遠くかけ離れている。キンケード氏に関するシリアスな場面でも話に入ってくるなど、厚かましくさえある。「鳥目で夜は視野が狭くなるの」という発言に対しても「年をとるとそうなるのか」と返答するなど不躾なものになっている。しかし、いずれも決して嫌みのようなものではなく、悪気なく率直に彼女の言動につながっている。客の求めるサービス、もてなしが「目に見えない」だけのことである。
 物語は終盤、マナーの悪い車を前にして暴言を吐く彼女を見て、ユニークに感じたヴィクトリアは、自分が配役のエージェントをしており、大作映画に出る新人を探している旨を伝え、彼女を映画スターにとすすめる。誰もが憧れる夢のような話であるとヴィクトリアは自負していながら、コーキーは整備士になるという現実にこだわりをみせる。目の前にある「チャンス」が「目に見えない」でいる盲目性とともに、2人の考える「夢」や価値観の違いが如実にあらわれている。

ニューヨーク―言葉のすれ違い


 ニューヨークでタクシーを捕まえようとするヨーヨー。なかなか捕まらない中、危なっかしい下手な運転でやってくる。道もわからず、ドライブをDに入れることすら危ういドライバーに任せられず、ヨーヨーが目的地のブルックリンまで運転していくことになる。タクシードライバーは東ドイツから来た異邦人であり、無難な英語しか話すことが出来ず、時折ドイツ語がでてくる。「ブルックリン」も「ブルックランド」と言い、「cool」という言葉も「寒い、涼しい」と捉えるなど、目の前の言葉を拾えずにいる。お互いの名前を告げるシーンでは「ヘルムート」を「ヘルメット」、「ヨーヨー」を「おもちゃのヨーヨー」になぞらえるなど、異なる言語間でのディスコミュニケーションが取り上げられている。
 物語は途中アンジェラというヨーヨーの義理の妹を連れる。スラングが飛び交い口喧嘩をするが、家族のいないヘルムートは仲睦まじく微笑ましいもののように感じている。加えて、「ファック」のような言葉を知らないため、場の雰囲気と想像力で2人の口論を目の前で聞いている。また「きれいだ」とアンジェラに声をかけるものの、実際の口論中のアンジェラは汚い言葉ばかり使っているなど、事実が見えていない。
 到着後、ヨーヨーは実際13ドルのところを、12ドルを払いヘルムートは素直に受け取る。ヨーヨーはよく数え直してみろ、これがニューヨークだ、と注意する。ヨーヨーは、外国人=騙されやすいため、善かれと注意したものではあるが、ヘルムートにとって「金は必要だが重要ではない」という。ニューヨークという街を舞台に、ニューヨークに住む者と外から来た異邦人との、すれ違う考えが描き出されている。

パリ―先入観という罠


 ジャームッシュは想像力がもたらす負の側面も表現しているように見てとれる。その代表とされるシーンが、パリのパートにあらわれる登場人物のやりとりである。
 場面はカメルーン大使と面会するようなVIPを乗せたところから始まる。酒の入った乗客はドライバーのことを「兄弟」と呼ぶなど、ひたすらに弄りつづける。出身がコートジヴォワールということから、¨C’est un ivoirien¨(「こいつはコート・ジヴォワール人だ」)¨Y voit rien¨(「何も見えない」)という洒落をいう。これは「イヴォワリヤン」という音の重なりであり、これがこの後のストーリーの、また作品全体の主題となっている。怒ったドライバーは「兄弟たち」をタクシーから追い出し、その後盲目の女性を乗せる。「兄弟たち」を乗せた面倒からドライバーは、盲目の女性を、面倒がなさそうで情けをかけるべきものという先入観で接していく。
 ここでは「移民・健常者・男」、「フランス人・盲目者・女」という2人のアイデンティティが入り交じる。ドライバーは、目的地までの道順も目が見えないからわからないだろうとトンネルを通ったり、「不自由だろうな」と健常者視点で接し声をかける。しかし彼女は、健常者と何も変わらない、という彼にとって的外れな返しをしてくる。何も見えないはずの盲人が映画に行くのかという問いも、障がい者は弱く、情けをかけるものであり、それが善意であるという先入観からきている。こういったことは移民である彼も少なからず受けているはずの対応ではあるが、そうした自分の立場も、障がい者も変わりなく、感じとって物事を考えているのだということも「見えていない」のである。
 彼女に彼が想い抱いている弱さなどなかったのである。どうにかして目が見えないことの欠点を見つけようと、自らの出身地を当ててみろと言うも、容易く当てられる。逆に盲目の女性が車内でタバコを吸い、壁にタバコを押しやって消し、そのまま捨てる、といったところが見えていない。見えないはずの盲目者が普通の人間同様見えており、他方、見えるはずの健常者が逆に見えない、「見えるものが見えない」盲目性を表現している。物語最後、ドライバーは情けから「40フラン」とタクシー料金を安く告げるも、料金は「49フラン」であり情けをかける必要などないと言われる。さらには「気をつけて」と送り出すも、その本人が衝突事故を起こし、「どこ見て走ってる」と口論になる様は滑稽である。

「この男は、彼女の目が見えないということは、弱さであるとか、対処すべき欠陥、ハンディキャップに違いないという偏見に囚われている。それでやっきになって彼女の弱さを見つけて自分の先入観を正当化しようと思い、女に話しかけ続ける。でも実際、彼女にそんな弱さはない。確かに目は見えないけど、でもそれだけのことだ。」
(『JIM JARMUSCH INTERVIEWS 映画監督ジム・ジャームッシュの歴史』、188頁)

コミュニケーションの不在


 ローマ編では、陽気で不謹慎な運転手ジーノが、乗客の神父に、自らが昔起こした「罪」についてひたすら懺悔をしていく。一方通行の道を逆走し、夜なのにサングラスをつけたまま、乗客が体調悪そうにしていながら、タバコを吸うなど、「当たり前」のことが見えず、倫理観が欠如している。ドライバーのおしゃべりが進むにつれて神父の症状も進んでいく。薬を飲もうとするも、車の揺れで薬が散らばってしまう。そしてついには義理姉との思い出話をしている最中に乗客は死んでしまい、最終的にはベンチに放置していく。ここでは、自らの置かれた立場や事の重大さ、背負うべき責任などに対して盲目になっているドライバーが描かれている。
 最後のヘルシンキ編では、半ば投げやりに笑い話になるべき不幸話と、シリアスな不幸話の対比が光る。運転手のミカは酔っ払った三人組を乗せることになった。その客のうちの一人、アキは、仕事をクビになってしまった。新車被害、娘の妊娠など、その日がアキにとってどんなに不運であったかを2人は説明する。だが、運転手のミカは、「それだけか?」と、自分のことを話し始めた。待望の赤ちゃんは未熟児で、1週間もつかどうかと医師に言われ、ミカは死んでしまうのなら最初から愛情を持たないようにしようと決める。だが、赤ちゃんは次の週も、またその次も、小さな体でがんばり、妻に「あなたは間違っている、あの子を愛してあげましょう」と言われ、我に返るも、今朝赤ちゃんが死んでしまったというものである。ここでは、酔っぱらいの乗客がしてきた笑い飛ばすべき不幸話を真面目に受け取ってしまうところがポイントである。こうした場の雰囲気を読み、半ば聞き流し同情するべきところを、自らの不幸に重ね合わせ、シリアスに語り出してしまうという点に盲目性がある。ローマ編、ヘルシンキ編いずれにおいても問題とされるのは、言語に拠らない部分を読み解く能力の不在である。反対にそういったノンバーバル・コミュニケーションのサインが見えるからこそ、われわれはこの作品を観ていて興味深いと感じられるはずである。
 人の考え方、捉え方は多様である。であるがこそ、こうした対人関係におけるミスリーディングが生じてくる。ひるがえすと、われわれの持ち合わせる差異がいかようにも世界を作り出すということをジャームッシュはあらわしているのかもしれない。

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