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『気違い部落周游紀行』を読んで考えた

 きだみのる著『気違い部落周游紀行』を読了。戦中から終戦直後にかけて農村で生活した筆者が、その最小単位である部落(集落の意、被差別部落の「部落」にはあらず)に焦点を当てたフィールド・ワークの記録である。『贈与論』のマルセル・モースに教えを受けた筆者の記録は、人類学・社会学の貴重な記録となっている。

 でも、誤解されやすいよなぁ、と思う。言葉狩りが盛んな現代においてはなおさらだ。誤解されやすいその文体は、フランス文化の影響や、きだ自身の持って生まれた性格・性質もあるだろうが、その時代背景を抜きにしては考えられない。

 同じ頃、あの人はどう過ごしていたのだろう。

 民俗学者の宮本常一が『忘れられた日本人』を著したのは、1960年。この作品よりずっと後である。(ちなみに、この『気違い部落周游紀行』は1946年に雑誌「世界」に連載され、1948年に刊行、毎日出版文化賞を受けている。きだはその時53歳である。)もちろんこの本は読んでいただろうし、この本から多くのことを学んだはずだ。宮本が単行本で読んだとすれば、その時宮本は41歳、宮本自身が『忘れられた日本人』を出版したのは、きだが『気違い部落周游紀行』を単行本で出した時と同じ、53歳である。

 詩人の金子光晴は1946年に疎開先から戻り、1948年に詩集『落下傘』を発表している。金子はきだと同じ1895年、きだは1月、金子は12月の生まれだ。金子もまた戦前のパリで暮らしている(1930~1931)。きだのパリ大学入学は1935年だから、時期はズレているが。同じ年代の目で世界を見ている。

 詩集『落下傘』に収められている「寂しさの歌」には、(昭和二〇・五・五 端午の日)とある。きだはその頃「気違い部落」で暮らしている。「僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、/この零落の方向とは反對に、/ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。」(『落下傘』「寂しさの歌」最終連) 1935年に発表した詩集『鮫』に収められた「おっとせい」と呼応する、この「寂しさの歌」で、金子は日本人に通底する心性を「寂しさの釣出し」という言葉に結晶させた。
 金子は『気違い部落周游紀行』を読んでいただろうか。読んでいたとしたら、何をそこから受け取っただろうか。

 多くの作家は戦時下に書いた自作を戦後、破棄した。対戦意識を高揚させるために書いた作品を、すべて捨て、全集にも載せなかった。ほっかむりしたのだ。ただ一人、太宰治だけは戦時下の作品もそのまま年譜、全集に残っている。彼は大政翼賛政治のもとでも、ちゃんと自分の作品を書き続けていた。彼は1946年に発表した「十五年間」にこう書いている。

 私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。

 日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは「成功者」になれるのかも知れないが、田舎者の私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。それらの主義が発明された当初の真実を失い、まるで、この世界の新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。
           (どちらも『グッド・バイ』 「十五年間」より)

 1909生まれの太宰は、『気違い部落周游紀行』が出版された年に38歳で玉川上水で入水自殺をした。自死の二ヶ月前に出版されたこの本を、彼は読んでいただろうか? もし読んでくれていたら、少しは笑ってくれただろうか。あるいは、「道徳の煩悶」をさらに深くしただろうか。

 『気違い部落周游紀行』を読んで、こんなことを考えた。

 

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