世直しと人生の意味


 サムネに、世なおしとある。

 noteは週一にしようと思ってゐたのに、あんまりバカバカしくて、この記事を書いてしまった。

 今は天体望遠鏡といふものがある。
 宇宙が見える。
 そこには、わたしたちが信じてゐる空間も時間も意味を失ふ。
 これを名付けようとすると、虚無といふ言葉しかない。
 人間の中を覗くと、宇宙がある。つまりは、虚無がある。
 人間は虚無から生まれた、虚無の子らしい。

 世なおし
 
これをしてゐる、と思ったとき、人間は、宇宙の虚無と自分の中の宇宙のことを忘れることができる。

 芸能人の自殺やジャニーズ問題などで、それらの自殺や問題とはまったく関係が無い人たちが、今日も、涙を流さんばかりに悲憤慷慨してゐるのも、参政党やれいわ新選組、それからたぶん、これからは日本保守党などに人が集まるのも、
みんな、世直ししたいから。

 この世を良くしたい。少しでも、良く、したい。
 そんな思ひで何かをやってゐる、特に、群れて、みんなで、大きな声でわるい奴らを罵ってゐるときに、生きてゐることの、そのものにある無意味を忘れることができる。

 ヒトラーが台頭したときのやうに、今の日本では、大衆が「強力なリーダーシップのある政治家」を求めてゐる。

 それだけ、今の日本では、
自分の人生に意味が無いと感じてゐる人が多くなってをり、この世界が虚無だといふことから、政治や思想を使って逃れようとする人が増えてきたといふことだと思ふ。

人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への餌(ゑ)を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒に向かつて人々を鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとするあの政治
                   三島由紀夫『美しい星』より

 自分の実存(つまりは生の無意味)は、自分で引き受けて、信仰ニヒリズムによって、自分として解決するしかない。
 (これが個として生を享受した意味だらうと思ふが、かう思ふことはもはや信仰である)

 政治や仏教や哲学や思想に頼っても、群れになり、大衆化することに終はる。そして、仲間と敵といふみんなの中で自分の問題を忘れて時間をつぶすことしかできなくなる、とわたしは思ってゐます。
 
 仏教として↓のやうな動画を取り上げたら、
「ほんたうの仏教はこんなものぢゃない」
とか言ふ人も多いだらうが、わたしから見たら、仏教なんてみんな、似たり寄ったりだ。色即是空、空即是色をクルクルまわる、回し車にハマり込んだハムスター。
 なんで仏教者って、こんなに他人に自分の考へを説明してまはるのだらうか?同じ考へになってほしいんぢゃないか?
 さうなると、より良い世界になると思ってるのか?
 
 ならば、これもひとつの世直し運動だ。
 運動だとしたら、これは信仰ではなく、宗教である。
 なぜなら、運動とは数を増やすことであり、それはつまりは政治へと舞ひ戻ることだからだ。
 ふつう政治と呼ばれるものが遠慮がちに遠回しに演説の中に紛らはせているドグマを、あからさまに教へや真理としてかざした政治が、宗教だ

 たぶん、この人の考へ方に同調した「信者」めいた人々が群れをなしてゐると思ふ。


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