日本精神

 日本精神。
 日本精神といふと、日の丸の鉢巻きでも思ひ浮かべるかもしれないが、本来は、そんな明治の国民国家日本の精神主義とは質が異なる。
 薩長のイモザムライたちが、谷あひの清流のやうな日本精神を、兵器と憲法で淀んだ、国家主義の泥沼にしてしまったのだ。


 さて、
山や木や石などに神が宿っていると昔の人は考えた
といふやうなことがよく言はれるけど、これってちょっと「昔の人」をバカにしてないか?

 今のわたしたちは、山や木や石などに神が宿っていると考へない。比喩として言ふだけ。
 なのに、なぜ、昔の人は、さう考へてゐたと決めつけるのかな?

 今でも幽霊や宇宙人を信じてゐる人はゐる。だから、昔も、ほんとに石の中に神がゐると思ってゐた人もゐたにちがひない。
 だが、大方の人は、「そんなふうに感じる」といふことだったと思ふ。

 どうしてそんなふうに感じられたのか?
 それは、合理的精神が無かったからだ。
 
 合理的精神は、一神教のGodから生まれる。
 Godは、あらゆる事象の照合元である。
 不思議だなと思ふことも、「それは神がお造りになった」といふことで、理(ことはり)が定まる。
 もう不思議でもなんでもなくなる。

 科学革命が起きてGodの存在が頼りにならなくなると、西洋人たちは、人間の頭脳に理性があると信じるやうになった。
 理性とは科学との照合を行ふ能力のことだ。

 欧米先進国のインテリたちは、今、この理性信仰に留まってゐる。


 日本人は、ちょっと特殊で、漢字の国から合理的精神はずいぶんと流入したが、あまり身につかなかった。
 西洋の合理的精神も明治になってから入ってきたが、これも、文化の芯までは届いてゐない。

 日本人には、理性が無い。

 だから、わからないものは、わからないまま、神でも宇宙人でも、科学的事実でもなく、ただあるがまま「わからないものがある」と「そんなふうに感じてゐる」人が、まだ、少なくない。

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 日本人でも理性のある人、例へば、ひろゆき氏とか成田氏とかを信奉するやうな日本人だったら、お金ももらってないのにかたじけなさを感じるのはアホだと思ふだらうし、伊勢神宮に行っても決してなみだはこぼれない。

 


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