頭のいい人
いろんな人に会っていると、ときどき、自分で頭がいいと思っている人に出会う。
ふりかえってみて、そういう人に共通している特徴は何かを考えてみると、小中高のどこかで成績が一番(かそれに近いくらいの成績)だったという経験があるようだ。学校で成績がいいと自分が頭がいいと思う。そして、そのことは終生変わらぬ信念となるようだ。
というのも、東大や京大など旧帝大系の大学に入ったから自分は頭がいいと思っている人にもよく会う。そういう大学を一番いい成績で出たとかいう人は、もうこちらが何を言っても聞く耳を持たなかったりする。
もし卒業当時に頭がよかったとしても、それは一年も経てば過去だ。
わたしも昔は家族の中で一番若かったのだが、それを今さら言っても仕方ないような気がする。
学歴や優秀な成績だったとかいうことを公表している人は、頭がいいのかもしれないが、同時に、頭が固そうな感じも受ける。
頭がいい人の定義も、考えてみると、難しい。
先ず、「頭がいい」というのは、特定の状況での実際の対応においてしか生じないことだ。「頭がいい」とは、動作電流みたいな一定時間内の現象である。
だから、誰かが「頭がいい」という状態は現実としてあり得ないようにわたしには思える。
つまり、どんな人でも、「頭がいい」と思うような言動をする可能性があり、その逆も言える。
常識的には、医師とか弁護士は頭がいいことになっている。「大学で数学を研究しています」と言われると、「あー、この人は頭がいいんだなー」とわたしも思う。
けれども、その場合、「頭がいい」とは、特定の機能やスキルにおいて性能が優れているという意味だろう。
わたしには、或る機能やスキルにおいて優れていることを「頭がいい」とするのは、ちょっと意味を広げ過ぎて、よくないような気がしている。
というのも、こんなことが起こりがちだからだ。
野球選手がものすごく成績がよかったり、実業家が自分の事業をものすごく発展させたりすると、その人たちは「頭がいい」ことになって、引退した後に、スポーツや人生や経営について助言したり忠告したりし始めて、一般の人も講演会に行ったり著作を読んだりする。
下手をすると、そんな人が首相になってくれたら日本はよくなるのにとか言う人まで現れる。
たしかにわたしも大谷選手が天皇になったらいいのにとは思っているが。世界に大受けだろう。
こうなると、「頭がいい」という捉え方は危険だなと思う。
いっそ、「頭がいい」人など、この世にいないということにしてはどうかと思う。
そうすると、今流行っている「おまえはバカだ」「いや、お前こそバカだ」といった論破合戦をしなくてよくなる。
なぜなら、誰かをバカだと感じる人は、そう感じる自分はバカだと思ってないだろうし、ことによると「頭がいい」と思っているかもしれないからだ。
みんなが自分は決して頭はよくないと思っている方が、ものごとに関して、論争ではなく、話し合いをするようになるのではないかと思う。
YouTube動画などで「岸田はバカだ」と言う人を見ていると、インテリが多い。インテリになるような人は、きっと、少なくとも小学校では成績が一番だった人だと思う。
わたしのように小学校の時から勉強ができなかった人間は、「頭がいい」と自分で思う機会がなかった。ずいぶんと劣等感を感じたが、結果的にみると、「頭がいい」と思わないでよかったような気がする。
もちろん、ほんとうに頭がいいかどうかは学校の成績とは関係がないとして、東大を出た奴はバカばかりとか言い出したら、えらいことである。
勉強ができるから頭がいいと思っている人より、さらに頭の硬い人が生まれると思う。
わたしは、実は、大学院に入ってからはとても成績が良かった。それもそのはずで、良い成績を取るために勉強したからだ。なるほど、こうすると学校ではいい成績を取れるのかとやっとわかった。小中高の頃は、教えられる内容について考え込んでいて、たとえば、自然数がどうして存在するのかで苦しんでいた。
学校でいい成績をもらうと、一時的に、もしかしたら自分は頭がいいのかもしれないと感じたことは否めない。
けれども、その後の人生で身に染みてわかったのは、成績に関係なく、自分はアホだということだった。
わたしが学校の成績がわるくてよかったと思うのは、成績がわるいから自分は頭がよくないと思っており、頭がよくないと思っているから、常に、自分の思考・判断・感性を疑っている、そのことがよかったと思っている。
わたしとしては、そうして疑う姿勢にしか知性は姿を見せないような気がしている。
天才と言えば必ず出て来るアインシュタイン。
彼は量子論を疑った。
だから、アインシュタインは知性の人だ。
と書いたら受けるのだろうが、わたしはそうは思わない。
アインシュタインには自分の知識によって構築した世界があり、その中に入ってしまった。だから、量子論は間違っていると感じたのだ。
量子論はアインシュタインが求めた「完全な宇宙」に瑕をつけるものだった。アインシュタインは―西洋人にはありがちだが、Godを物理法則に置き換えて(つまり無神論に転じて)信仰を維持しようとした人だった。
自分の構築した物理世界を疑うことができなくなったのは、それほどに素晴らしい理論的合理的世界だったからだ。まったくアインシュタインは希代の天才だった。
そして、自分でも天才だと思ったのだろう。自分も他人も認める「頭のいい」人になってしまったのではないだろうか。
ニールス・ボーアの名前を知っている人は少ないと思う。アインシュタインのかげにひっそりと名前を見せる人だ。量子論についてアインシュタインと「論争」したことになっている。
彼は、「論争」したのではない。
まだ、「私たちには(誰がみても「頭のいい」理論物理学者にも)、わからないことがある」とアインシュタインにさらなる思索を求めただけだ。
ボーアにとって白黒をはっきりさせる対象などは無い、それがどうも世界の実相らしいと彼は感じていた。
そのことをアインシュタインと共有したかったのだ。
アインシュタインはそれを認められなかった。理解できなかった。
その時点で知性を失っている。・・・とわたしは思う。
その場合の「知性」とは、論文を書く能力とかいうものではなく、ただ単に「疑いを許容できるこころ」くらいの意味である。
頭のいい心理師なら「ああ、それってネガティブキャパシティですね」とか言うだろう。
アインシュタインはその後もなんとか量子論は間違っていることを証明しようと思考を重ねた。
彼は終生「頭がいい」人であったのだろう。