参政党員に願ふ

 参政党に関しては、この動画↑のKAZUYA氏が言ってゐることと、わたしの見解はほとんど同じだ。

 参政党は、『賛成党』だと言ってゐるが、これは参政党が出て来たときから、わたしは、
「神谷宗幣氏に賛成する党だ」
と思ってゐたし、世直し政党なら、それでいいし、さうあるべきだと思ってゐた。
 その点をこの前の記事でまとめてみた。

 KAZUYA氏は、陰謀論では未来が無いただし、終はりのはうで、
騙されました
数百万円貢ぎました

といふスピ系の人の話が出て来るが、これこそ、後に詳しく述べる大衆。

①心の拠り処を求める人達
②その人たちに
世間で言はれてゐることは間違ってゐる、真実はかうだ!
といふ情報を提供
③かくあるべき「子供たちの未来」をぶらさげて
④現在のままでは大変なことになるといふ不安を煽り
⑤自分たちの賛同者とする
とか言ってるが、
今ごろ、わかるなんてアホすぎ。
②で、ふつうは、ちょっと自分でも考へ出すだらう。
今ごろ、目覚めましたといふ人は、②を丸呑みしたといふことだ。

 こんなバカな人まで取り上げて参政党を批判したいKAZUYA氏って何なんだと不思議になる。

 といふか、正体は明白。

 何にもコミットしないでお金儲けを最終目標とする、インテリ芸人の一人、つまりは、
口だけで自分は何もしない口動者
なのだ。
 かういふ人の動画を見たり本を読んだりして、自分も口だけを動かしてゐるのが、今の日本人だ。(わたしも日本人です)

 

 日本保守党が東から昇って来て、参政党が西に傾いたといふ感じ。
褒めそやしてゐた人たちが、批判を始めて、どんどん逃げ出す。

 かうなったのは、神谷宗幣氏が政治家になるにはあまりに純粋で誠実な人だからだ。

 この記事の結論から先に言ふと、政治を捨てて、
神谷宗幣氏には教育者に戻ってほしい

 神谷宗幣氏は、
口で言ってゐるばかりで自分は何もしない
といふ人間になるまいとして、一度は抜け出した泥沼、つまり政治の世界に戻った。

 最初から
政治はいやだ、時期が来たら、やめたい
と言ひ続けてをり、先の選挙のときも、演説の時には毎回のやうに、
疲れた、時期が来たら、やめたい
そして、
「これからぼくは事務局長としてますます忙しくなる。だから、議員は絶対に無理だ」
と強調してゐたのに、
アニキ
といふ気味の悪いニックネームで神谷宗幣氏を呼び始めた参政党支持者によって国会議員にされてしまった。

 ↑いろんな人が近づいてきた頃やね。


 ちなみ、日本保守党の支持者は百田尚樹氏を
親分、おやびん
と呼ぶ人もゐるやうだが、かつてはトランプ大統領をオヤビンと呼んでゐた大衆が、今は、百田尚樹に期待を寄せてゐるのかもしれない。

 どうして神谷宗幣氏を国会議員にしたのかといふと、
 参政党の支持者が大衆だからだ



大衆とはどんな人たちか?

①民主主義を信仰の対象にしてゐる人たち
 
 民主主義はけっこう毛だらけだ。ただ、基本原理として、数が力、多数決によってものごとが決まる。そのことを踏まへれば、なんでもかんでも
民主主義と唱えて
民主主義の護符を貼れば
ものごとが解決する

・・・はずがない。
はずがないのに、信じ続けるのが大衆だ。

 マスコミやインテリ芸人が
「それは民主主義ではない」「民主主義が行はれてゐない」「民主主義が危険にさらされてゐる」
などといふと、
「だったら、ファシズムだ独裁だ。ファシズムで独裁だったら、悪だ」
と脊髄反射して騒ぎだすのが大衆だ。


②「頭がいい者は常に少数派だ」といふことを認めない。または、自分がその少数派だと思ってゐる人たちが大衆だ。

 いつの時代、どこの国でも、インテリ☆は常に少数派だ

☆インテリ= 頭がいい者とは言へないが、とりあへず現代日本では、本を書いて売れている人といふ世俗的な定義で、大衆の一人であるわたしの記事に於いては、十分、事足りると思ふ


 これは変へることのできない現実だが、勉強すれば頭もよくなる、インテリになれると思ってしまふのが大衆だ。

 だから大衆はインテリ芸人たちのセミナーに通って勉強を続ける。そして、インテリ芸人たちの書いた本を買って本棚に並べ、本が増えるにつれて、それを眺めてゐる自分は自分でものを考へてゐると思ってゐる。

③現実や社会には、テストの答へのやうな明快な正解が無いことに満ちてゐるといふことを直視しないのが大衆だ。

 だから、とにかく白黒がはっきりしたものに飛びつく。

 西洋で、宗教のドグマに二千年間もしがみついてきたのは大衆だった。
 司祭クラスになると、自分でものを考へてゐるから、ドグマなど信じてない。
 自分たちの地位に於いて、大衆を支配し搾取するのに役に立つから宗教を使ってゐるまでだ。

 これはどの一神教にも当てはまる。




 宗教のドグマとは、つまりは、正義である。
 
 宗教が自信を失ってゐる日本では、
何が正義であるのかは、マスコミやインテリ芸人から指し示してもらってゐる
 例へば、
岸田増税メガネとか、
或いは移民の外国人女性が留置された先で死んだとか
ジャニーズ事務所のやりたいと放題とか、
なんでもいいから、悪者が明確になって、やつらを罵ればやつらのやったことを嘆けば、自分たちが正義の心を持った清廉な人間であることを証明できるとなると、休みを返上してデモ行進すら始める。

だから、大衆とは常に明快な正解、
何が善で何が悪か
求めている人たちのことだ。

 それを求めるのは、心が弱いからだが、その弱さとは器としての弱さであり、小ささである。
 ネガティブ・ケイパビリティ☆の脆弱さだ。

答への出ない事態に耐へる能力。
 不確実さ、不思議さ、懐疑の中にゐられる能力


 弱い心は、現実に関するいくらかの情報を心に入れると、もう、一杯になってしまふ。だから、それを黒と白に分類して吐きださないと苦しくたまらない。
 それが大衆となる人の心だ。

 だから、何が白で何が黒かといふ正解や解決を与へてくれる・〇と四角の眼鏡をかけたあの人を始めとして・ミギやヒダリやチュードーなど様々なインテリ芸人、さらに陰謀論やスピリチュアルに飛びついてしまふ。

 この大衆をいかに巧みに操作するかが、民主制に於いては、政治である



 神谷宗幣氏は、大衆を巧みに操作するには、誠実すぎる。気性が生一本すぎる。
 政治は、やはり、かつての石原慎太郎氏、今なら、百田尚樹氏、そして、山本太郎氏などといった、いはば煮ても焼いても食へぬ人たちに任せるべきだ。

 上に貼った動画では、神谷宗幣氏がトンデモ論を展開してゐると批判してゐるが、神谷宗幣氏が教育者であったら、事実としての裏付けが無くても、自分が理想とすることを語っても、まったく問題がない。

 教育とは、そもそもが空理空論を基にした、子供に対する洗脳である。
 だから、教育者の誠意といふ人間性が、教育の質を決める。

 どっちにしても、
 自分で学んで自分で考へる人は、最初は先生に教へてもらふとしても、いずれは先生から離れる。

 だが、生涯の師を求める人も少なくない。
 自分が死ぬまで誰かを先生と呼んで慕ってゐる人は、心の拠り所を他者に見出すことができて、或る程度は、幸福に生きられるだらう。
 だから、その生き方もありだと思ふ。

 さういふ人のために、この世には、
神谷宗幣氏のやうな・生まれながらの「先生」がゐるのだと思ふ。

 神谷宗幣氏は、今、先生と呼ぶと、
「先生はやめてください」
と言ふ。
 確かに、今は、神谷宗幣氏は、あのなつかしく素晴らしい「神谷先生」ではない。

 神谷宗幣氏には、先生に戻ってほしい
 子供だけでなく、大人にとっても、神谷宗幣氏は先生になれる人だ。
 そんな人はめったにゐない。このままではあまりにもったいない。

 

 先生に戻れば、神谷宗幣氏の誠実さも、知識も、見識も、すべてがなんの遠慮も配慮も無く、思ふまま発揮できる。

神谷宗幣氏の元を去らないで、これからも共に生きたいと思ってゐる人たちは、神谷宗幣氏が教育に戻れるやうに、ゆっくり確実に、道筋を整へてほしいとわたしは思ふ。


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