日本という国家について

祭つれば在(いま)すが如し。神々を祭つれば神在すが如し。子曰わく、吾祭に与(あずか)らざれば、祭らざるが如し、と。 
              「論語」八佾 第三 十二

祭如在。祭神如神在。子曰、吾不与祭、如不祭。

祖先の霊を祭るには、祖先がそこにいるかのように祭る。神々を祭るには、神々が目の前にいるかのように祭る。先生がおっしゃった、私は自ら祭りに実際に参列して誠意を尽くさなければ、祭ったような気持ちにならない。


 日本の文化の根っこには天皇制がある。それは、日本の場合、国家が、祖先を祀ることから成り立っているからだ。

 日本人は、今いる家族や近所の人たちだけを視るのではなく、自分たちが経験できる時間を超えた時間の流れの中で、生死を繰り返してきた無数の家族や近所の人々とのつながりを観る。
 おかげさま、という感覚は、横(現在の時空)だけでなく、縦(過去から現在まで連続している時空)にも広がっている。

 日本人の生活感覚は、横と縦が交差したところにある。過去から未来に流れていく時間の中の今に、日本人は暮らしている。

 くりかえされる一回ずつの生と死が、過去から現在まで連続してきたという認識が、日本をネーションでもステートでもない、国家としていた。
 つまりクニでありイエである共同体が、日本人にとっての国家だった。

 日本が国家でありえたのは、日本列島の住民が、
祭つれば在(いま)すが如し。神々を祭つれば神在すが如し。
という共同幻想を持っていたからだ。

 日本が国家であるためには、すでにこの世にいない人々やその人々の暮らしを在(いま)すが如く祀る能力が無ければならない。

 災害の犠牲者を祀って慰霊祭が行われるが、十年、二十年後、さらに半世紀後なっても、その日に涙を流すのは、近親の者か、近親と同様な親しさを故人に感じる人たちだろう。
 それらの人たちは、故人を在(いま)すが如く祀っている。

 わたしたち日本人は、すでに死んで肉体もなくなった人や動物に、水を供え食べ物を供え、そして、在(いま)すが如く祀ってしまう民族なのだ。

 在(いま)すが如く、心の中で語りかける、それが、日本人の祈りだ。

 祖先、神話時代からの歴史、自然、それらを今見えるものを超えて、一万年の時の流れの中に、在(いま)すが如く観ることが、たぶん、明治維新までの日本人にはできていた。

 これを可能にしたのは、温帯の島国であることだ。
 大陸から切り離されていながら孤立しているわけでもない。苛烈な侵略を受けるほど近くなく、文物を学び取ることが可能な、ほどよい距離に大陸があった。
 そして、日本から、食糧調達のために大陸を侵略する必要もなかった。豊かな風土の列島に暮らしていたからだ。


祭つれば在(いま)すが如し。神々を祭つれば神在すが如し。

 この祭祀をする人が、現人神として国家の中心にいる。
 天皇は大嘗祭と共に、神々とのつながりを確保する。その時、人体を依り代とする神々が降臨する。
 この共同幻想、違う名前で言えば、原始神道(原神道)が、日本という国家を生み出し、列島の住人を人種を超えて「日本人」としてきた。


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