物自体と生気

閲覧注意。
この記事には、死体などに関する不快な表現があります。










 生首の話はけっこう人の気をひくらしい。
 わたしはこれを次のやうに理解してゐる。

 つまり、身体を持たず、首だけがあると、かへって人間が身体といふ物質であることを思ひ知らされる。
 わたしたちは、ふだん、物質に囲まれて暮らしてゐると思ってゐるが、それは頭で考へてゐるだけのことで、心ではあらゆるものに「生気」を感じ取ってゐる。
 これがなくなると、サルトルの『嘔吐』といふことになる。

 とりわけ、人間のことは、「生気」の精髄、霊魂(プシケ)として、心は捉えてゐる。
 だから、わたしたちは、ソファーとか自動車とかいった物体は平気なのに、人間の死体といふ物体に対すると、突然、恐怖や嫌悪を感じる。

 その恐怖や嫌悪を「死者に対する畏れ」といふことにして埋葬する。

 つまり、急いで、目の前から消し去ってしまふのだ。
 都会はともかく、空き地や野原がある地方でも、死体が放置されて土に還されないのは不思議なことだが、どうも人間は原始時代から、人間が死んだからといって不用品あつかひはしなかったやうだ。

 科学が行き渡った今、死体に取り縋って泣いたりするのは、理性的に考へると、間違ってゐる。
 かつて、深沢七郎といふ作家は、恩師の正宗白鳥がなくなったとき、
「正宗白鳥が死んだ。もうただのモノになったのだから、正宗白鳥先生とか正宗白鳥様とか呼ぶ必要が無い。白鳥と呼び捨てでいいのだ」と威勢のいいことを書いた。
 その深沢七郎氏も、後年、愛犬が亡くなった時は、死んでモノになった犬に取り縋って、号泣したさうだ。

 カント先生が教へてくださったやうに、わたしたちは、モノをモノとして見ることはできない。認識の色眼鏡をかける。そして、どんなモノにも、なんらかの「生気」といふ、彩りを添へる。
 さすがに狸や狐に化かされたと言ふと信じてもらへなくなった今の時代だが、天空に龍やUFOが飛ぶのを見ることはできる。それは、わたしたちの目が、たとへ何も無い空間にでも、「生気」といふ色合ひが流れるのを見ることができるからだ。

 くりかへしになるが、むしろ、モノをモノとして見るはうが難しい。
 科学が告げるやうに生命も含めて、すべてが物質だとしたら、わたしたちの認識は、それらの実相を何一つ観てゐないことになる。
 そして、実際、誰も、何も見てゐない(、とわたしは思ふ)。

 目の前に生首が転がると、一瞬、自分たちが現実として見てゐる世界が揺れる。たいていの人にとって、信じてゐる世界が動揺するのは不快なことだ。だから、生首から目を逸らす。

 中には、その揺れを、むしろ、楽しむことで不安を乗り切ろうとする人もゐる。生首を手に取ってしげしげと眺めるやうな人だ。
 そういふ人たちのことを、猟奇趣味の人と呼ぶのだと思ふ。
 サカキバラといふ名前で有名になった人もそんな一人だったと思ふ。

 土葬をしない日本ではあまり聞かない話だが、墓場から女性を掘り出して花嫁衣裳を着せて結婚するといふことをする男性がゐる。世界のどこにも、いつの時代にもゐたし、これからも生まれてくる。
 男性とは、そもそも、どんなに平凡に見えても、一人一人が、各種の変態、異常性欲者である。ただ、死体に性愛を感じる男性はただの変態ではなく、生気とモノの乖離を鋭く感じ取ってゐる哲学者である。
 あまりに感じ取り過ぎて、その乖離をなんとか埋めないことには生きゐられない。だから、結果として、腐りかけた女体との性交といふ、まことにおぞましい猟奇趣味となる。

 特殊な変態男性だけの話ではない。
 生気とモノの乖離を感じてゐても、それを埋めようとするやり方が腐乱した女体との結婚とは違ふ男性もたくさんゐる。むしろ、こっちの変態男性のはうが多くて、かへって目立たないのだ。
 さういふ変態男性たちは、社会人として、たいていは社会のむしろ高い階層にゐて、今日もそれぞれの仕事をしてゐる。

 精神科医とかなんとか、具体的に、その仕事の名前をいちいち具体的に述べるのは、控へたい。
 

 

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