子供は親の欲望を生きる

子供は親の欲望を生きる、と書いたことの補足。

わたしの記事を読んだ知人(参政党の一般党員、二児の母)に、

「親の言うことなんかきくか、あほ」
と、さっきラインで罵られた。

あほはいいが、その前の断言はよくない。

わたしは、
サヨクの親ならサヨク
ムスリムの親ならムスリム
と書いておいた。

つまり、親が思想・宗教・倫理・主義、なんでもいいから観念にこりかたまり、その観念によって現実を乗り切ろうとしている場合のことだ。

子供は親の欲望を生きる。

けれども、子供が困るのは、親の欲望がよくわからないことだ。

子供に手を焼く親は、子供にとっては曖昧な欲望を持って生きている。
それは親の生き方であるから、それでいいのだが、子供にとっては、ちょっとやっかいなのだ。

それで、ああしてみたり、こうしてみたり。
親にとっては、自分の子供ながら、やっかいな、何を考えているのかわからん、あるいは、こうしろと言ったらああするし、ああしろと言ったら逆にこうして、あーっもうしらんと言ったら泣きながらくいさがってくるしで、しんどくてたまらんという子供が現れたりする。

もし、親の欲望が子供から見ても明確なら、子供は、そのとおり、楽々と生きることができる。

こう考えれば、子供に有無を言わせぬ厳格な躾を行う親の元では、少なくとも幼少時は、親の期待するとおりの、きわめて礼儀正しい子供が育つことも納得がいく。

(塚本幼稚園の子供たちに感動した保守派たちがいましたねー。
下の動画はけっこう偏見と先入観に満ちた編集をしていると思うが、それにしても、まあ、国旗掲揚と君が代の斉唱とかはきもい)

親の言うことをきかないということも含めて、子供は親の欲望を生きる。


もちろん、繰り返すが、そうしていないと自分は食べるものがなくなって死ぬと勘違いしている間だけのことだが。

この勘違いは、洗脳の後遺症として、毒親と呼ぶべき親たちと関係が切れそうになったときに浮上してくる。
そして、親から拒否されると思ったときに幼少時に感じた「死ぬかもしれない」という深刻な恐怖を、今度は無意識下に感じることになる。

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