政治と意識改革

 中川昭一氏が酩酊会見をしたことについて、辛坊なんとか氏が死ねとか言っている動画を、最近、見た。
 なんで酔っ払って西洋人の前で醜態をさらしたくらいで、死ななくてはならないんだ?
 政治家は、そんな聖人君子なのか?


 政治家がスキャンダルで攻撃されるときは、攻撃する側にとって目の上のたんこぶみたない存在(英語のa pain in the neck、寝違えたときの「首の痛みみたいな奴」のほうが実感に近いかも)だからということが少なくないようだ。

 情けないのは、保守派のインテリ芸人も同じことをやる。誰がセックスのときにどんなコスプレが好きだとか書いたりYouTube動画で話したりしている。
 殺して埋めたりしたら、さすがに問題だが、どんな変態であっても、政治家の資質とは関係が無い。

 どうして政治家が私腹を肥やしていたり、愛人を何人も持っていたりすると、腹が立つのだろうか?
 政治家には、自分たちが引きずり回される金銭欲や性欲から解脱した生き仏であってほしいのだろうか?

 そもそも、わたしたちは、政治に何を求めているのだろうか?

 政治とは、直接的な暴力を用いない利害調整である。
 それ以上もそれ以下の機能も、求めてはいけない、と私は思う。

 何か正義とか世直しとかを求めると、政治に共産主義が入ってきたり、石原慎太郎氏みたいな売文業者が政治家になってしまったりする。

 そして、また、どうもアメリカに逆らい過ぎて消されたとしか思えない中川昭一氏のような男気のある政治家を、まさに、政治家の鑑であるかのように思ってしまうのだ。

 世の中をよくしたいのなら、政治ではなく、自分たちの生活から改善していかなければならないと思う。

 ひとりひとりの意識の改革

 聞き飽きて耳にタコができる言葉だが、やはり、ここに戻ると思う。
 日本がほんとうに民主主義の国なら、政治や選挙に頼らず。ひとりひとりが自分のものの考え方や生活の仕方を改良してくことで、社会や国を良くしていくはずだ。

 日本で民主主義といっているのは、国民の信託を受けた政府が云々とかいう言葉で飾るが、ようするに、政治家に丸投げすることだ。

 それではまだるっこしいと感じると、政治に走ってしまうのだと思う。

 ひとりひとりの意識の改革で何ができるのか、と思う人は、今回のコロナのワクチンについて考えてほしい。
 わたしはワクチン反対派でもないし、副作用で苦しんでいる人に同情している人間でもない。
 けれども、もし、日本がほんとうの意味で民主主義の国だったら、つまり、ひとりひとりが、出来した感染症のこと、そして、それに対するワクチンについて腰を据えてじっくり自分で考えるような国民だったら、日本国民の大多数がワクチンを打って、しかも、その後、二度も三度も打つということは起きなかったと思う。

 ちょっとおそろしい話になっていくが、政治はあくまで非暴力である。非暴力の中で政治が行われる。
 そのため、数の多さが暴力に代用される。
 これを肯定するのが、民主主義だ。

 いわゆるグローバル全体主義者は、政治の暴力(多数派)に対して、お金で対抗している。全体主義と呼ばれるだけあって、民主主義を否定しているわけだ。それができるのは、莫大な政治資金の供与だ。

 さすがの政治的暴力(多数派)も、お金にはたじたじとなる。

 さらに、本気で政治を変えようするなら、純正の暴力に限る。
 死ぬ気の人間が一人でも出てきたら、政治は、変わる。

 死ぬ気の人間とは、人をいくら殺しても平気である。どんな汚いこともやる。
 西郷隆盛はそんな人物だった。
 だから、政治を易々と動かして、明治政府という怪物(日本を食いつぶしていく怪物)を造り出した。

 そういう事態は恐ろしいから、政治は、岸田さんと自民党がやっているようなものでいいのだと、わたしは思っている。

 かさねて言うと、世の中をよくしたいと思うのなら、自分で考えて、自分が動くしかない。
(ブーメランが頭に刺さりましたから、自分なりに、動きます)

 

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