三島由紀夫の政治哲学

三島由紀夫『美しい星』より

 全面核戦争による人類のすみやかな滅亡を推奨する邪悪な宇宙人・羽黒助教授に対して、地球を救おうとする惑星人一家の長である火星人の大杉重一郎の、人間弁護のスピーチは続く。

 歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の知恵は、人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。

 さて、あなたは、一たびパンだけで生きうるといふことを知つてしまつた人間の絶望について、考へてみたことがありますか?それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。

 彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては解決されない絶望だつた。何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きることへの絶望ではなく、生きていること自体への絶望なのであるから、絶望がますます彼を生かすからだ。

 彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、自殺の代はりに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。

 そこで考へ出されたことが、政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。

 その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけが順調に消化される。

 生存の無意味を保障するために、彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にしてしまふこと。

 しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。

 この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素(もと)になつたのだ。

 私は破滅の前の人間にこのような状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛型だからだ。

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 彼らは決して(水爆を発射させるための)釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の空洞を崩壊させることになるからだ。

 肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を滅ぼすことには耐えられない。何故ならそれは、母なる虚無の宇宙の雛型だからだ。

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「どうしてあなたは、それほどその風穴に信頼する気になつたものだらう」

「私の人間としての体験からだ。
 はじめ私は自分で自分に風穴をあけたものだと思つてゐたが、やがてそれは全人類の一人一人に、宇宙が浸潤して来たことの紛れもない兆候だと気づいた。
 そして私はその空虚が花を咲かせるのを待ち、ついにはそれを見たのだからね」


 こうして『美しい星』を読み返してみると、前に書いた『象徴天皇』という自分の記事で天皇制をドーナツに喩えて、真ん中の穴こそが天皇だとしたのは、この宇宙の雛型と同じ考え方だと思いました。

 だから、わたしにとって、天皇とは、きわめて反政治的な存在だということになります。
 
 また、『空の神道』という記事で、神道の中核に空があるとした、あの空は、この小説でいうところのこの空洞、この風穴と同じ意味だと思います。
 ですから、神道もやはり、わたしにとっては、国家神道という形にしろ、宗教リテラシーをわきまえた国際観光宗教という形にしろ、政治体制下にある組織の一つとして組み込まれることを本質的に拒む存在です。

 どうやら、わたしは、どういう形であろうと、政治が嫌いであるらしい。
 つまり、わたしは、どこまでいっても政治的なあらゆる価値も理想も信じられない虚無主義者であるとしか思えないから。
 『美しい星』を読んだときに刻印された政治の冷徹な認識に復讐を企てるという試みが、ニヒリズムの堅持という方法で、ずっとわたしの中で生きているようです。

ちなみに、公園のベンチや混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情とは、
人が独りで、
どこを見るでもなく、
少しうつむいて、
ぼんやりとしているときのことで、
そういうとき、人は自分自身の中にある存在の無意味、空虚、風穴を意識することなくじっと見つめている。

 こういう人々は、政治的熱狂によって群れ集う人たちと、対極にいる。

 このようにうつむいて自己の空虚、存在の無意味を直視している人たちは、決して、政治的なスローガンによって束ねることができない人たちです。


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