小説とは何か?

 noteを書くようになってしみじみ感じているのは、たいていの人との人間観の違いだ。
 わたしは人間性の奥にはとんでもないものがあると思っている。 
 それは、端的に言って、わたしが自分の人間性の奥にとんでもないものを仕舞い込んでいるからだ。
 そのとんでもないものが人間の人間性だと思うのは、それが自分には確実にあるからだというふうに循環するのだが、もし、たいていの人にそういうものが無いのなら、それを人間性と呼ぶのは単にわたしの思い違いかもしれない。

 けれども、とんでもない人間性が、身体の奇病に相当するものだとしたらどうだろうか?
 奇病(希少疾患)に罹患する患者数は人口比でおよそ0.05%だそうだ。そのうちの80%が遺伝性であるらしい。奇病を人体の持つ負の可能性のひとつとして認めるのなら、そして、そのような奇病(奇病であれば同時に難病でもある)を持つ人も人間のうちに入れるのなら、わたしのような希少疾患にも似た、病的な人間性を持って生まれた者も、人間一般のうちに入れなければならない。人間ではないものとして分類することができなくなる。
  
 LGBTQ+という概念が出て来ると、さまざまな性の嗜好に関して、それは嗜好ではなく、人間の性に対する指向のひとつであると言いたくなる人は出て来ると思う。
 そして、そう言いたくなるのは、自らの性向が、奇病であり難病、つまり精神の病だとされている人たちだろうと思う。

 三島由紀夫氏が『仮面の告白』を書いたときは、男性の同性愛が、ちょうど社会からは「精神の病」だとされていた時代だった。奇病であり、さまざまな精神療法や行動療法や精神修行をおこなってもまったく治らない難病だった。

 今は、ちょうど、医師や精神病理学者たちが、未成年者を性の対象にする人たちを精神の病気として囲い込もうとしている時代だから、三島氏のような作家が、今、二十代前半だったら、自分のことをロリコンだと告白する小説を書くだろう。(三島氏のことをいまだに同性愛者だと思っている人が多くて驚く。氏が自分の同性嗜好に対して著名な性科学の学者に相談する手紙が残っているので、同性愛者であることは決定済みのようになっている。けれども、氏の小説を読めば、性嗜好も性志向も完全に女性だということは明らかだ)

 同性愛でもロリコンでも小説の道具立てとしてはなんでもいい。自分が生きて暮らしている社会では「そんなやつは人間ではない」とされる者であること、そうした人間でなければ、わざわざ小説を書く必要はない。
 近代小説は、読み物娯楽の一つして生まれたのではない。どうしても書かなければ、人を殺すか自殺するか、そうでなければ発狂するという人々が文才にすがって始めたことだ。
 作家の心が病んでいることに驚く人がいるが、わたしは、精神的に健康な作家がいたら驚く。というより、そんな人が作家であることが信じられない。
 過敏さや自閉性、病的な臆病など、精神や性格に多少の歪みがあることをもって自分を作家などの芸術的感性を持つ人間だと勘違いする人が絶えないのも、もとはと言えば、小説や近代詩が病んだ心が無ければ生まれなかった表現形式だからだと思う。

 他の人間と分かり合える仲間として生まれたら、どうして小説や詩などといった曲がりくねった装飾だらけの文章を時間をかけて書く必要があるだろうか。

 人には理解できない人間性と「自分は人ならぬ怪物かもしれない」という思いを、人に理解できる方法(つまり言葉)を使って伝えようすることが、小説を書くということだ。

 音を美しく構成することによって音楽になるように、小説は言葉から音楽を生み出さない限り、文学とはならない。言葉が美を生み出さず、単なる音としての言葉を並べているだけなら、それはいかに巧みで複雑であっても、人肉食の犯人の調書やフリーセックスを楽しむ人たちの自撮り動画などと変わらない。グロやエロな感銘を除くと、そのほかは情報だけとなる。つまりは、レポートの類で終わる。
 心の裏側に届かない、自分に見える心の表面だけを波立たせる刺激を楽しみたいなら、映像で十分だし、映画の方が効率がいい。

 美を生み出すだけの文才が無いのが残念だが、わたしが言葉を使って何かを書いているときは、たいていの人には想像もできない、自分だけの人間性について伝えようとしている。
 わたしは自分のことを文才の無い小説家のように感じて、ときどき、キーボードの前で泣いている。

 だから、ほとんどの人には何を言っているかわからないし、ごくわずかでも最後まで読んだ人は、自分の人間性から生まれる、健全な社会的な反応をする。
 どちらにしても、わたしの言っていることは誰にも伝わっていない。それは、わたしの言葉に、文学的な力が無いからだ。

 文学とは、たったひとり(つまり自分)だけにしかわからないこと、たったひとり(つまり自分)だけしか体験していなことを、自分以外の誰もが分かり合える言葉というもので伝えようとする。
 つまり、わたしが「猫」と書けば、日本語がわかる人なら誰でも、この「猫」という言葉で何を意味しているかを理解できる。
 そして、もしわたしの言葉に文学的な力があるのなら、誰もが共通理解する「猫」という言葉を使って、わたしが共に暮らしたわたしの猫について何かを伝えることができる。わたしだけの体験とわたしだけの感情を。

 それは、決して、お互いに共有できる体験や感情に訴えることではない。「ああ、それってわかるよ」と読んだ人の多くが共感してつぶやく文章は、何かを報告しているが、文学にはなっていない。
 
 このような文学観も、また、わたしの言葉では伝えられないと思う。

 こんなわたしにすれば、今の時代に文学だと思われている作品の多くは、今の時代に生きて暮らす人たちの経験のエキスを上手に絞り出し、多くの人たちの共感を勝ち得たものであるのは確かだが、そういうものは、文学として百年後の世の中に残るとは思えない。
 今の時代の最大公約数的な経験や感情とは異なるそれらをもっている未来の人たちには、むしろ、読んでも何も伝わってこない古い文章の堆積となっていて、読むのは言語の変転を探る言語学者や歴史の資料を探す歴史学者といった人たちだけになると思う。
 もともと文学でなかったものは、記録や報告書として残ったとしても、文学として読まれることはない。

 

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