文化とは何か?

 文化とは何だろうか?
 平気で「多文化共生」と口にする人は、文化をどんなものだと思っているのだろうか?

 人間という動物―ヒトには、ネアンデルタール人が滅びて以来、ホモサピエンス一種類しかいないそうだ。
 一種類のヒト、それなのに、言語が多種多様であることを不思議に思ったことはないだろうか?

 シジュウカラの研究をしている人が、シジュウカラの「言葉」はシジュウカラ以外の鳥にも通じている事実を発見した話を知っている人なら、なおさら、ホモサピエンス同士が、互いに何を言っているのかまったくわからない言葉を話していることに対して、むしろ「不自然さ」を感じるはずだ。

 人間の言語は、人間の骨格が白人でも黒人でも黄色人種でも同じ「骸骨」として描けるように、フランス語でもヒンズー語でも中国語でも、その文法(統語構造)は同じだ―という説がある。
 人間の言語には、普遍的な文法(UG: universal grammar)があるという捉え方だ。
 UGとは、「言葉の骸骨」のようなものだ。

 実際の人間の言語は、UG仮説が世迷いごとに思えるくらい、互いに異なっている。地域によって、民族によって、バラバラだ。

 ここで、わたしは、文化も、言語のようなものかなと思う。地域が決定的な要素になっているのではないかと思うのだ。

 ホモサピエンスも、日差しの強いところでは黒人になり、日差しの薄いところでは白人になって、強かったり薄かったりするところではモンゴロイドになったのだとしたら、地域の環境に応じて、その場所の風土が求める暮らしぶりが特定の言語を生み出し、特定の文化を生み出したのではないか?

 同一のDNAを持った一卵性双生児は、生まれた後は、別々の意識を持つようになり、互いに独立した個人になる。
 双子の二つの、それぞれ異なる実存は、環境の反映として生まれたことになる。
 ここでSF的な発想だが、その双子を生まれた瞬間から、完全に同一のことだけが起きるバーチャルな時空の中に閉じ込めて育てたら、別々の意識は生まれるのだろうか?
 まったく同一の環境に対して同一の反応をしている意識が、二つあるとしても、それらを二つあるとする根拠はどこにあるのだろうか?
 双子のそれぞれの身体の存在は根拠にならない。同一のDNAから構築された身体は物質的な違いを持っていないからだ。

 このように考えて来ると、文化とは、ある民族の主体的な経験の積み重ねから生まれたものだと言わなければならないだろう。ある地域、つまり所与の自然環境を生き延びようとする特定集団を成したホモサピエンスたちの暮らしが、その暮らし方と相即する文化を生み出したのだ。

 もし、文化がそういうものなら、それらを適当に混ぜ合わせたら、もっと良いものができるだろうとは思えなくなる。

 なにもあせって日本列島のような狭い地域に異なる文化を集めて来なくてもいいと思う。
 もし、文化が地域の暮らし方から生まれたものなら、科学技術の発達によって、地球全体が都市化していく過程で、文化の違いは消えていくだろう。

 わたしたちは、すでに西洋人も東洋人も、「洋服」と呼ばれる服装をしている。近代的な都市で暮らすには、民族衣装は邪魔である。

 アフリカ人もTシャツを着ている。イスラム教徒もブルカからヒジャーブへと、身体と顔、そして将来は髪の毛を出す方向を目指している。こんな現象が起きるのは、ムスリムの女性が西洋人の服装がしたいと思うからだけではなく、ムスリム男性もその服装の女性を見たいからだ。

 電気水道ガスの備わった生活空間を求めるならば、文化の違いを示すような建築は、ほんのお飾りとしてしか残せない。


 
 或る種の生物が、絶滅危惧種となる原因は、つぎの二つだ。
①環境の変化
②外来種の侵入

 文化も同じだと思う。
 わたしのような排外主義者は、「骨の髄まで日本人になる覚悟」がないガイジンは日本に入ってくるなと思っているが、そんなことを言っていても、いわゆるグローバリゼーション(世界の都市化)によって、日本の文化は、遅かれ早かれ、消えていく。
 
 そのときに現れる「世界文化」「地球文化」というものに希望を託せるかどうかで、心情において、サヨク的(人類の進歩と未来を信じる)かウヨク的(骨董趣味=伝統文化を惜しむ)かがわかれると思う。

 わたしはウヨク的なので、「地球文化」とは、文化の砂漠だと思っている。ヒトの住める世界ではないと思っている。
 たぶん、人工実存Artificial Existenceか、ヒトがAIとハイブリッドする形で進化した新種のヒト科の大型類人猿か、或いは、その両方が暮らしていると思う。タイムマシンができたら、ぜひ、近未来の「地球文化」を見物しに行きたい。

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