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淡路島の社を巡りて~第貳社目 熊野若一権現(王子熊野神社)

淡路市志筑王子

志筑神社若一権現の社名で、平安時代の延長五年(927)から明治初年(1868)まで志筑郷の総郷社として約1000年間崇められた。
「創祀については伝記は残っているが、記録は少なく不明である。」との由緒書がある。
後白河院の院庁下文案の「淡路国志筑庄」には、養和元年(1181年)に志筑庄は新熊野神社領として再認されており、志筑庄はこれ以前に成立している。

「淡路国小社十一座を訪ねる 志筑神社」でも、延喜式の神名帳の志筑神社は、この若一神社でなかろうかと書いた。
平頼盛領、源頼朝領所領を経て、後白河上皇が紀州新熊野社に寄進した荘園に志筑荘があり、この若一神社が新熊野社領であることから、上記の総郷社が貴社ではないかと疑問を持ったことが始まりである。
その後も資料を読んだり人から話を聞いたりしたが、小生としては今もって納得のいくものがないというところである。


【意匠・彫刻】

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御社の彫物は、大村南龍作の八幡社のものよりも志筑神社のものに近いように思う。八幡社や志筑社に比べ彫りも緻密であり、龍・獅子・兎・亀・鹿・麒麟とモチーフの種類や点数も多い。背景や花弁・樹木に至るまで将に芸術作品と言え、その荘厳さを際立たせている。これらの意匠からも御社が式内社ではなかろうかと思ったところである。しかし製作年や新改築の記録が分からないので、現在の意匠だけで判断することはできないだろう。
また本殿と拝殿では年代が違うようにも思うところがある。

研究資料の「王子村若一権現」では、山中に本殿(または宝物殿或いは神楽殿か摂社かも知れない)があり、その下に山を背にした拝殿、正面からは長い参道が通っており、左手に溜池・松林、右手に田畑という構図である。配置から言えば現在の社殿は元々本殿だったような気がするが、詳細は不明である。


【祭礼・だんじり】

かつて志筑では、志筑神社・王子熊野神社・八幡神社・大歳神社に年4回檀尻を出していたところもあり、大正中期に八幡社と大歳社が合祀され、熊野社へも檀尻を出さなくなったと聞く。
志筑の事情には詳しくないが、昭和の終わりまでは志筑神社には天神組が、熊野社には王子組が檀尻を出していた記録があるが、立派な社のあるこの若一神社も合わせて、出ている檀尻が少ないのは寂しいことである。

現在、志筑で神社といえば八幡社が有名であり、『鮎原村史』でも「享保年間(1716~36)に志筑某が泉州住吉社に詣で、帰国後同社の檀尻を真似て作り、(八幡社に合祀された)大歳社の祭礼に出したのが淡路での舁き檀尻の始まり」とされており、現在の八幡社は春季例大祭も賑わっているが、社の風格から言えば、この若一神社は一見の価値がある。

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