汐街コナ氏の表現論、その問題点~多様性、悪影響、炎上~

ゆっくりしていってね!!!!

イラストレーター/漫画家の汐街コナさんという方が、多様性や表現の問題について、ご自身の見解を述べていらっしゃったわ。

けど、読めば分かる人には分かるけれど、これがけっこう問題だらけなのよね。

一見すると「良識的」「穏当」にも見える書き方だから、流された人もいたみたいだけど、内容はまともな根拠がまるで見当たらないし、現実的な妥当性にも欠いているわ。

というわけで、今回の記事では、汐街コナさんの論の問題点をゆっくり検討するわよ!

「萌えや萎え」と多様性についての論の問題点

神崎ゆきさんのツイートに引用RTする形で、次のように述べているわ。

ただ、汐街さんのこのツイート、賛否以前に、私には理解しがたいものがあったのだわ。

とりあえず形式的には、
神崎ゆきさんの「自分の萎えは誰かの萌え。逆もしかり。これが多様性です。」(=だから少しの不快はお互い許容していきましょう)という見解に対して、
汐街コナさんが、「萌えや萎えは「嗜好」の問題」に過ぎないとして、「好き嫌いと差別は違います」と主張し、「萌えや萎えと多様性の話を一緒くたに」するべきではないと反論している状態ね。

さて。その問題点は次の3つよ。

①汐街さんが言う「多様性」の定義は何?

始めのツイートの中で一番ひっかかったのがコレよ。
汐街さんが、神崎さんとは異なる定義の「多様性」を後出しして、「それと違う」という論法で批判している点ね。次のように述べているわね。

『萌えや萎えと多様性の話を一緒くたにしている時点で「多様性」自体をあまり理解してないのでは?』

一緒くたにするっていうか、そもそも「多様性」って、辞書的には「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。」(デジタル大辞泉)という意味よ。
萌えや萎えに多様性があるのは単に事実だわ。

だから、『多様性において問題になるのは嗜好の話ではない』と言われると、

「? いや、普通に嗜好には多様性があるわよね? その多様な嗜好を尊重しあうのも、多様性を重んじる主義・思想からすれば自明に大事で本質的なことじゃないの?」

まあ正直、こんな感想になるのよ。
生物多様性という言葉があるように、嗜好にも多様性があるってだけよ。

ちなみに誤解してほしくないのだけど、辞書に従わず独自に定義すること自体は問題ないの。汐街さんが「多様性」を、反差別の文脈でだけ使えるものと定義していても構わないわ。

ただ、それを誰かの発言に対する批判として、「後手番」でやるのは基本的にいただけないのよ。(絶対なしという訳じゃないけど。)
こんな会話はおかしいでしょう?

Aさん「嗜好には多様性があります。お互いの嗜好を尊重しましょう。」(※一般的な辞書に従い、「多様性」の語を使用)
Bさん「嗜好と多様性を一緒くたに語るのは間違っている! なぜなら多様性とは~……」(※以下、独自の定義内容を述べる。)
Aさん「え? いや……え?」

これ、Bさんの批判がAさんの論に「噛み合ってない」「対応していない」のが分かるかしら?

そもそも後手番(Bさん)がAさんが使った言葉を勝手に再定義して、「私が採用している定義と違う。よって間違い!」と言っていいなら、反論側は常にそれだけやってりゃいいって話になってくるわ。無敵すぎるでしょ。

もちろん、例外はあるわ。
オカルトの人が「霊的エネルギー」とか言い出した時に、科学者が「それは物理学でいうエネルギーとは異なる。」と指摘するのは、世間の人々を誤謬や詐欺から救う点で有意義でしょう。

でも、今回の「多様性」の場合は、

①初めの発言者(神崎さん)は辞書的に問題のない使い方をしている。
②人権論・反差別論のジャンルでも、「多様性」の一語をそこまで狭く限定するのは一般的でない。

この2つの理由から、汐街さんの批判は的を外しているわ。

②冗長な言い換えで話の筋を見失っている。

萌えとか萎え、嗜好、好き嫌いってやたらと言い換えてるけど、このツイート内部では同じ意味よね。

・「多様性は萌えとか萎えとかの世界ではない」
・「多様性において問題になるのは嗜好の話ではない」
・「萌えや萎えと多様性の話を一緒くたに」すべきでない。

だったら、これらの文もすべて完全に同じ意味だわ。さすがに冗長よ。

また、「萌えや萎えと多様性の話を一緒くたに」すべきでないという発言は、①で述べたように意味不明よ。萌えや萎えに多様性があるのはただの事実であって、否定されることじゃないわ。
そして、「萌えや萎えには多様性がある」「お互いの萌えや萎えを尊重しあうのが望ましい」と述べることを、「AとBを一緒くたにする」と表現するのも強い違和感を覚えるところね。「一緒くた」にはなってないでしょう。

ふつう、この表現におけるAとBって、本来は、

日本の話海外の話を一緒くたにする」とか
果物野菜を一緒くたにする」みたいに、

こんなふうにカテゴリーが一致する並列なものについて述べる表現よ。しかも、多様性は状態を表す言葉だわ。私には「萌えや萎えの話と多様性の話を一緒くたにする」という文章は、「日本の話と不景気の話を一緒くたにする」と同じカテゴリー間違いを犯した文章に見えるわ。

③「差別」の話はしていない

もう一度ツイートを見直しましょう。

汐街さんは「好き嫌いと差別は違います」と指摘しているけれど、これ、「神崎さんの発言」に向けた反論としてはやっぱり的外れなのよね。

その理由はシンプルで、神崎さんは「好き嫌いと差別は同じです」とは言っていないからよ。暗にそう主張しているとも読み取れないでしょう?

だから、汐街さんのツイートには、先程の「多様性」の件も含めて、根本的に「一体誰に向かってしゃべっているのか?」という疑念を覚えるのよね。

次のツイートも同じ問題があるわ。

「好き嫌いと差別や蔑視を一緒くたにしたらダメです。」という発言単体には私も賛成するけれど、誰が一緒くたにしているのかというと、別にそんなもの誰も一緒くたにしていないのよね。世間全体が対象なら確かに何人かはいるでしょうけど、わりと宛先不明の発言だわ。(神崎さんのことだとしたら、彼女のどの発言から「好き嫌いと差別を一緒くたにしている」と読み取れるのか示してほしいわ。)

「奇妙な状況」の想定で生じた「奇妙な結論」

先に進みましょう。

見知らぬ女性にエロ雑誌を見せつけ」て、相手の女性に嫌がられた時、それを「女がエロを嫌いなだけ」で説明しようとする人ってどのくらいいるかしら。これもまた宛先不明の発言ね。

何なら、男性だって、「見知らぬ人」「知らない男性」から突然エロ雑誌を見せつけられたら、気持ち悪いし普通に怖いわ。エロ雑誌に限らず、動物図鑑や児童向け絵本でも怖いと思うわよ。
この部分は、「見知らぬ人から」という奇妙な状況を設定しているせいで奇妙な結論になっているだけね。

本当に「社会の問題」だと立証できるか?

ここからは表現の問題に踏み込んでくるわ。

「でも、そこは別。」と考えているのはいいでしょう。

ただ、社会の問題を個人の問題に矮小化することが不適切であるように、個人の問題を社会の問題に巨大化することも不適切よ。「これはAの問題ではなく、Bの問題だ。」と主張するには、いずれにせよ十分な根拠が必要よね。

例えば、戸定梨香さんの交通安全啓発動画は、まさにフェミニスト議員連盟によって「女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長」(抗議状)すると指摘された訳だけど、その根拠がおおいに問われたわ。
手前味噌だけど、私もそれを問うた一人よ。

差別や偏見を助長するかどうかは、きちんと検証すれば結果が出せるわ。

例えば、ランダムに集めた1000人を、500人ずつ2グループに分けて、片方は戸定梨香動画やキズナアイ動画、宇崎ちゃんポスターを見せる、もう片方には見せないという対照実験をやった場合、「見せるグループ」の方で差別的信念が有意に強化されるはずよね。

あるいは、通勤・通学に「新宿駅」を使う人と、同じく「秋葉原駅」を使う人で比べたら、後者のほうが萌えポスターを見る機会が(おそらく圧倒的に)多いから、やっぱり差別的信念を持つ人も秋葉原駅利用者の方でより多くなるはずなのよね?

そういう結果が出なかったら、あるいは「出ないだろう。」と予測されるなら、「差別・蔑視を助長する。」という話はそもそも成立しないわ。

悪影響は、もしあるとしたら、上のような実験や調査研究によって、きちんと検出できるわよ。

できてる?

…………本当に、大丈夫?

さて。そもそも「差別・蔑視を助長する」というのは、決して簡単に主張していいことではないわ。だって、もし「事実無根」だったら、戸定梨香やキズナアイ、宇崎ちゃんといったコンテンツの制作者とファンに対して、とてつもない侮辱をしたことになるでしょう。実際には助長しておらず、助長しそうだと推測する根拠もないのに、差別者ないしは差別加担者だというレッテルだけは貼られるんだから。

どちらかといと、私は、不確かな根拠あるいは存在しない根拠によって、他人を事実上の差別者として扱うことのほうが、深刻な差別そのものだと思うけど。
誰であれ、悪いことをしてないのに悪者呼ばわりされる道理はないでしょう。

それは差別を間接的に「助長」するという問題ではなく、「差別している」という直接的な問題よ。

一見もっともらしいけど、範囲が広すぎる。

とはいえ、汐街さんもまともな証拠がないという問題点には気づいているフシがあるわね。

「差別・蔑視を助長する」における「助長」の条件をゆるめてきたわね。
まあ「そうするしかない」でしょうよ。統計データや実証実験で支持されてる話じゃないし。

・「~そう扱われたくない」価値観を、社会に広くすり込むようなことを指すと思います。

でも、これは根拠を持っていないことを自認している証拠でもあるわ。助長の意味を素直にとれば、「差別・蔑視を助長する」は、「差別的信念の支持者を増やすことを指す」でいいはずだけど、この定義では戦えないと見込んでいるのね。

また、「女性の多くは「世間全般から」は「性的な存在」として扱われたくないです。」と一見もっともらしい話をしているけど、対象の表現物が、実際に「世間全般に女性を性的な存在として扱わせようとしている」と合理的に示せないと「反対する理由」にはならないわ。

簡単にいえば、言いがかり・難癖の類でないことを示す義務(挙証責任)は、告発者側にあるのよ。

でも、そんな強烈なメッセージ性、今まで炎上させられてきた萌え系描写物のどれにあったかしら?

当然告発された側は、「自分は悪いことをしていないという証拠」を作る義務・責任まではないのだわ(善意でやってもいいけど)。というか、「悪くないと示せなければ、悪い」って中世魔女裁判よね。さすがに人類としてそれよりは進歩していると思いたいわ。

それに極端な話、女性キャラまたは実在女性が、少しでも性的魅力をアピールする形で登場しているだけでーー特定キャラ・特定個人の描写から「女性全般」に飛躍していいならーーすべて「世間全般に女性を性的な存在として扱わせようとしている」と言えてしまうわ。

あの、広範囲のマップ攻撃すぎない?

筋肉ムキムキの男性キャラをポスターに使ったら、それで「男性はムキムキになるべきだというメッセージを発している。」という罪で、同じように反対されるのかしら。

汐街さんの言うように『差別蔑視を助長というのは、ある種の人々が「世間全般からそう思われたくない・そう扱われたくない」価値観を、社会に広くすり込むようなことを指す』としたら、そんな「助長」表現に結び付けられないもののほうが珍しいでしょう。いくらなんでもゆるすぎよ。

また、上の条件だと、客観的に「本当に該当するか?」と検証する方法が原理的に存在せず、「言ったもん勝ち」になりかねないわ。

創作物による影響は親に劣るって本当?

汐街さんは対立する言論も取り上げてはいるのだけど、議論としてはとても雑よ。

「二次元だから現実に影響しない」は「よくある」というほどかしら。もちろん「創作物に犯罪を引き起こすほどの力はない」ならよく聞くし、私もその見解だけど。

影響する・影響しないの二者択一だったら、どんなに些細でも影響があれば「影響する」が正しんだから、そうでしょうね。そもそも「全く影響しないはずだ」なんてほぼ悪魔の証明だし。

「良い影響があるなら悪い影響も当然あります。」は、影響の強弱を一切問わず、「有るか無いか」だけに単純化すれば正しいわね。とはいえ、強弱の話はしておかないと誤解を招くと思うわ。

まず、そもそも創作物による良い影響も悪い影響もぶっちゃけ「弱い」と考えられるわ。
『スラムダンク』を読んでも大半の子はバスケットボールを始めないし、『ドラゴン桜』を読んでも東大受験勉強(試験勉強一般)は頑張れないし、『ダンベル何キロ持てる?』を読んでも筋トレやダイエットは継続できない。

悪い影響も同じで、子供だって――よほど幼すぎるのでなければ――倫理・道徳といった常識、警察や裁判官といった司法権力を知らないわけではないわ。漫画やアニメの主人公がどれほど楽しそうにスカートめくりや風呂場覗きをやっていても、じゃあ真似できるかっつったら、フツーできないし、真似しないわよ。洗脳装置じゃないんだから。

というか、そんなに影響受けやすいんならラクな話よ。自分にとって必要な「影響」を提供してくれる創作物を探して、それを「摂取」すれば、人生何もかもうまくいくのだわ。ダイエットがうまくいく漫画を読んで、ダイエットすればいいじゃない。

また、良い影響にせよ悪い影響にせよ、「それって本当に創作物のせい?」という検証は必要よ。
じっさい、倫理・道徳や司法権力をぶっちぎって犯罪や不法行為、あるいは著しいマナー違反に手を出す人って、「ある創作物に接したから」という理由で説明できるのかしら。それより創作物からの影響くらいで「ぶっちぎって」しまうメンタリティが問題だと考えるほうが自然でしょう。

さらに汐街さんは、かくも創作物による影響を高く見積もっている一方で、親からの影響を低く見積もっているのも謎めいているわ。

汐街さんは『親の教育が、アニメや漫画やゲームの影響の前にどれだけ無力か、かつて子供だった人なら知ってるはずです。』と言うけれど、それはおそらく「親が言うか、アニメ・漫画・ゲームが言うか」という主語の問題じゃないわ。

確かに、親が「宿題をやりなさい!」「部屋を片付けなさい!」と言っても、子供はなかなか聞かないでしょう。一方で、何か言う前から『鬼滅の刃』に出てくるすべての呼吸と型(※知らない人に向けて言うと、必殺技名みたいなものよ)は覚えてるわよね。

じゃあこれ主語を逆にして、親が『鬼滅の刃』の呼吸と型を覚えるように言い、漫画が「宿題をやりなさい」「部屋を片付けなさい」というメッセージを発してくるとしたら、子供がやることも逆になるのかしら?

うん――絶対、ならないわよね。

要は、人間はゆっくりできるメッセージに従いやすいというだけの話よ。発する主体が誰か(何か)という問題ではないわ。それなら親が言いたいことを漫画に代弁してもらえば済むでしょう。

そうではなく、勉強しなさい、片付けをしなさい、外で(子供にとって退屈な)遊びをしてきなさい、言葉遣いは丁寧にしなさい、挨拶はちゃんとしなさい、バランスの良い食事をしなさい――親の教育はこんな調子だからあんまり聞いてもらえないのよ。必要なことだけれどね。

仮に、親が考えを改めて、「勉強しなくていいよ」「好きなものを好きなだけ食べなさい」と言ったら、大半は喜んで従ってくれるでしょう。「勉強するべきだ」「栄養バランスのとれた食事をしなさい」という漫画の存在は無視してでも。

汐街さんの現実認識はズレているから、次の発言も私は真っ当には受け取れないわ。

『真摯に考えなければならない』は誰も反対しないような話ね。けれど、一般的な「真摯に考えること」には、まともな根拠・論拠を用意することが含まれていると思うんだけど、どうかしら? 

汐街さんの「差別を助長」論は、何でもかんでも含まれるような広範囲なものだったし、統計データや実証実験にも支えられていない。また「悪い影響はある」論にしても、「ゼロではない」以上に意味がある主張はできていないわ。そりゃゼロではないでしょうよ、何でも。

いきなり始まるTPOの話

さて。ここから更に汐街さんの論は混迷を深めていくわ。

ここまで問題にしてきた「差別蔑視を助長する表現」は、その性質上、どうあがいても「悪いもの」よね。それを法的に規制すべきかどうかは別としても、悪いものではあるわ。

でも、上で扱われているのは「TPOにふさわしくない表現(を設置すること)」よね。そしてこの表現は、汐街さん自身によって『けっして「悪いもの」じゃない』と認められていると。

不思議なんだけど、
悪いものじゃないのに、なぜTPOにふさわしくないの?
何かしら「悪い要素」があるから、「TPOにふさわしくなくなる」のではなくて?

加えて、「炎上するような場に使わないでくれぇ」と書いているけど、そんな場所は存在しないからそもそも無理な相談だわ。民間企業の主催でも、ゾーニングされていても、理由を差し替えられて炎上してきたし、これからも炎上するでしょう。
(ちなみに、例示されている宇崎ちゃん献血ポスターは、謝罪も取り下げもされていないわ。)

だから、この「提案」も無理だわ。

「燃えるような場所に置かない」を「一番」としているわね。でも、そんな場所が無いことに加え、なぜそれが一番良いと考えられるのか、なぜそのように予想できるのか、説得的な根拠は何ら示されていないのは論として大きな欠陥ね。

私としては、むしろ「置かない」という判断を主体的に示すことで、なおさら理不尽なクレーム活動が「効果的な運動」と認知されて、余計に肩身が狭くなる可能性を懸念するわ。

実際、オタク的な表現物を「置かない」という判断が主体的になされていた20~30年昔(あるいはもっと前)は、「法的規制と縁遠い、オタクにとって自由な時代」だったかしら? むしろまったくの逆だったでしょう。この一事だけでも、「置かないのが一番」という話には首肯しかねるわ。

ちなみに、「TPO」論については、ヒトシンカさんが明晰に批判していらっしゃるから、以下に紹介するわね。

【公共の場にふさわしくない】
 違法性や有害性を示せない表現に対し、その排除を正当化するための言い訳に使われる詭弁のひとつ。
 公共機関によるアニメ風イラストのポスターなどに対して、その些細な「お色気」を攻撃し排除要求するための「突破口」として使われることが多い。【公共性が高い】【TPOを守れ】といった常套句も同じ目的に使用させる。
 特にフェミニストがこれを多用する。
 嫌いな表現自体に何ら問題がないため「公共の場だけからでも」排除しようとする、いわゆるフット・イン・ザ・ドア戦術の一種である。
(中略)
 また、フェミニストはたまたま公共の場にあるからそれが問題であるかのように装っているだけで、公共の場でなければ別の理由で言い掛かりをつけるだけである。
 民間企業の広告や、特に公共機関とコラボレーションしていない漫画やアニメ・ゲームなどの作品、「ゾーニング」されたアダルト書籍やアダルトグッズ、果ては昔話に至るまで、未だ嘗て彼らが「これは公共の場ではないからセーフ」と言って矛を収めたことなど一度も無かったのである。
 こうした場合には、フェミニストの行動パターンとしては「正確には公共の場ではなくとも、【公共性が高い】」と拡大解釈で乗り切ろうとする傾向にある。
ヒトシンカ「公共の場にふさわしくない」(センサイクロペディア)visited 2021/11/4

またヒトシンカさんは、汐街さんの論の不備・欠陥をご本人に直接指摘してもいるから、下記のリンク先をゆっくり参照してちょうだい!


最後に、「同意できる」ツイート

汐街さんが最後の最後に述べたこのツイートの内容だけは、私にも同意できるものだったわ。

まったく異論なく、私は今後も胡乱で粗雑な「表現への批判」を、ゆっくり再批判していくわね!

まとめ

汐街さんの論の問題点、いわゆる「ゆっくりしていないところ」は次の通りよ。

1.「多様性」の語を独自に定義していると推測され、一般的用法(辞書的用法)と無意味に乖離している。
2.上記1の問題ため、神崎氏への反論としては噛み合っていない。(後出しの定義と比べて「違う」と述べてしまっている。)
3.「萌えや萎えと多様性の話一緒くたにする」という表現が不適切で、理解しがたい。
4.「見知らぬ女性にエロ雑誌を見せつけ」るという奇妙な状況の想定から、奇妙な結論を導いている。シンプルに不可解。
5.「差別蔑視を助長」と認定する条件がゆるすぎ、広範囲の表現物が当てはまる。また、客観的に「当てはまる・当てはまらない」を検証する手段が事実上存在しない。
6.良い影響・悪い影響について、「影響する・影響しない」という単純化した二者択一で語っており、その度合いや現実的な実行難易度が考慮されていない。
7.「親と表現物」の比較論が不適切。主語の問題ではなく、内容の問題。
8.「燃えるような場所に置かない」を「一番」とする根拠がない。そのため、説得力がない。

多!? 

私が細かいのはある程度認めるとしても、それにしたって雑に書きすぎじゃないかしら……。

けっこう「いいね」を集めていたツイート群だけど、残念ながらひたすら焦点の合わない話をしているだけだとしか思えなかったわ。

【2021年11月5日追記】
神崎さんご本人も、本件について反論note記事を書いているわ。

同一のテーマでも、私とはまた違った観点から鋭い考察がなされているわよ。特にマーケティング論に基づいた炎上の考察は、ぶっちゃけ汐街さんとは桁違いの出来栄えで、すごい説得力があるわね!

また、「良い創作物→良い影響・悪い創作物→悪い影響」という単純な予想がいかに成立しないかを、自身もファンだという筒井康隆さんのお話とともに見事に説明していらっしゃるわ。

加えて、「悪影響がある」→「許されない」に簡単に飛躍してはならないことを非常に分かりやすく示した次の部分は必読よ。

 「悪い影響があったとして、それは直ちに差別や犯罪に結びつくものなのか」という点。

 例えば、カップラーメンは身体に良いか悪いかと聞かれたら、良くは無いでしょう。アルコール類も、悪影響があることは確実です。スイーツ類も、過剰な糖分の摂取になる。

 問題となるのは「程度」です。

 悪影響があるからと言って、何でもかんでも「許されない」としたら、この世にあるほとんどの商品・サービスは消え失せます。

神崎ゆき『多様性ある社会で「表現と差別」を考える』(note)visited 2021/11/05

長い記事だけれど、読むだけの価値が確実にあるゆっくりした内容を備えているわ。私からも強く強くオススメするわね!

――以上、これにて今回の更新は終わりよ!
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