「カントとの対話」 第2回:批判の有益さ(シリーズ「哲学の根」)

てると:戻りました。趣味もなくて恋人も生まれてこのかたいないので、本を読んで息抜きしました。

カント:恋人か…。女なんかより知性を明瞭にする学びをした方が絶対にいいよ。だいたい哲学する人間に女など必要ないということは断言できるのであってだね、元来哲学するということは…

てると:わかります、わかります。哲学というものは本来、男がするものですからね。知り合いを家に呼んで楽しくしていればそれで充分です。続きをお願いします。

カント:ああ、そうだね。ところで僕は1781年にA版を出して、1787年にB版を出してるんだけど、そのBの方、つまり第二版の方では少なからぬ改訂をしてるんだ。そこで第二版の序文だね。まず前提として、理性の仕事に属するものは認識だ。ある学が確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果からすぐわかる。例えば論理学は、アリストテレス以来ずっと、一歩たりとも後退せずに、しかも進歩することもなかった。だから誰がどう見ても論理学は完結して完成しているように思われるよね。確かに些末な変更はあったけど、それは確実性というよりも優美さの問題だからね。この論理学の成功は、論理学が制限されているというところに要があるとみている。制限することによって、つまり論理学は悟性だけに関わるから、悟性が悟性自身とそれに含まれるその形式以外の何一つとしてにも全く関わる必要がない。その点、悟性の学である論理学に対して、理性にとっての学、つまり理性の学である形而上学は、途方もなく困難な道のりだったんだ。というのは、理性は自分だけに関わればいいんじゃなくて、客観にも関わらなければならないあの宿命を負っているからね。だから、論理学は予備学でしかないんだよ。わかるかな。つまり、学というものの前庭というイメージだね。つまり、知識ということが問題になるときに、論理学はたしかに知識を判断するためには使えるけど、知識を得るという仕事ではないから、獲得というときには論理学ではなくて客観的に学と呼ばれるもののほうでやっていかなきゃならないんだよ。

てると:論理学にも古代以来複数あったようですが、まあいいとしましょう。問題は、理性という、哲学病患者という変態にも似た本性をどう活かしどう処すかであって、つまり、古典主義時代に「私たち」とか「我々」とか言われたのって、要するに本性を共有する「人間」のことですからね。超越神の座も、自由の領野も、果ては死後のことについても、それを追い求めるのはつまりエロースで、なんでも知りたがり考えたがりですから、いわば構成素が無いにもかかわらず構造的空白を次々に生み出すようです。続きをお願いします。

カント:そのような客観的な学のうちに理性が存在するかぎり、そうした学では何かがア・プリオリに認識されているに違いないと言えるはずなんだ。ところで、理性の認識は二つの仕方で対象と関係することができる。一つは対象とその概念を規定するだけ、もう一つは対象を現実的なものにするものだね。前者の方は理性の理論的認識と言って、後者は理性の実践的認識と言えるんだ。その両方には純粋な部分とでも言えるものがあって、これはつまり理性が完全にア・プリオリに対象を規定する部分のことなんだけど、それが前もって論述されなければならないし、他に由来するものはそこに混入されてはいけない。

てると:ちょっと話が抽象的なので、具体的にお願いします。

カント:わかった。そうしよう。例えば、数学自然学がどちらも理性の理論的認識にあたる。これらはその客観的対象をア・プリオリに規定すべきものなんだ。数学は完全に純粋で、自然学はある部分では純粋で、それと同時に自然学の場合は別の認識の源泉も持っている。
 数学は古来、例えばエジプトなんかでは全くの手探り状態だったんだけど、ギリシアの誰か一個人の幸運な着想という革命によって、学の確実な歩みが無限の彼方まで開かれることになった。
 自然学は数学と比べるとかなり学の確実な道を歩み始めるのが遅かった。この本の頃からして1世紀半前にやっと革命が起きて軌道に乗った。そして、数学も自然学もどちらも、自らア・プリオリに置きいれたものを事象や自然のうちから探し求めるという方法によってその軌道に乗ったんだ。

てると:なるほど。つまり、概念や法則なんかを置きいれて、それとの合致を探し求めるということですかね。

カント:形而上学については、経験を全く超え出ているから、理性自身が理性自身の生徒であるわけだけど、これまではただ概念のもとの手探り状態にすぎなかった。形而上学がこれまでダメだったのはなぜだろうか、そこで、我々が従来の人間たちよりも幸運であるためにはどうであればよいのだろうか。それには、数学と自然学があのような革命によって歩みを進めたことを考量すればよいのではないか。つまり、こうだ。形而上学においても、対象に認識が従うのではなく、対象がア・プリオリな認識に従うと仮定してみては、どうだろうか?これは元々の要請、つまり対象をア・プリオリに認識することともよく合致してるじゃないか。

てると:あっ、これかあ!これがコペルニクス的転回ですね?

カント:それはいい言葉だし、そう言っていいだろう。つまり、この仕事はコペルニクスのあの仕事と同じだ。コペルニクスは、星々が自分の周りを回っているのではうまく説明ができないと考えた。だから自分を回転させた。これと同じだよ。そこで、直観が対象に従うのではなく、対象はあくまでも感官における客観であって、対象あるいは経験が概念に従うと考えるとうまくいく。

てると:なるほど、、、ここまで考えることができるとは御見それしました。素晴らしいと思います。しかし僕は、あくまでも僕の考えですが、その認識の様式が確固不動の古典期的人間における認識様式とは考えませんから、例えば認知科学だって変わらない人間観の提示ではなく、自己形成し続ける種の目安くらいに思っています。とはいえ、認識論にも耐用年数の発想は適用されますから、それは同時的に一定の時代における多数値の人間観としては成立するしだいを示していると思いますから、つまり重要な意義があると信じています。

カント:それでいいんだよ。そうやって、鵜呑みにしないで自分で考えることが何より大切なんだ。

てると:ありがとうございます。また、よろしくお願いします。


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