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オキシトシン自足論-平和の鍵を見出す試み-


 オキシトシンの排外性は愛情と対になった二極のスイッチのようである。
 社会学で言われる「包摂と排除」、政治学で言われる「友敵関係」などというのもだいたいこれである。母親と子供の母子密着における排外性に思いを致してみるといい。或いは「悪い者」いじめの現場を想像してみるといい。それでどんなものか想像がつく。

 私は2022年の春から2023年の梅雨の頃にかけて、ADHDの治療のためと思い、コンサータという、平たく言えばドーパミンを分泌させる薬を飲んでいた。ドイツ観念論の哲学者フィヒテの言葉に、「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」というものがあるが、実際にその頃の私は、振り返ると、ドイツ・ロマン主義に傾倒し、狂気、スキゾ、無限などに惹かれる詩作する哲学徒であった。しかし、どうにも人間を思い切れなかった。再三親しい友達を言動で傷つけた挙句、後輩に二者択一を迫られた。曰く、その友達をこれ以上傷つけて今の路線でやるなら人間から距離をとってください、そうでないのなら…、というものであった。私は前者を取れなかった。人間を思い切れなかった、とはそういうことである。要するに私は人間が好きなのである。
 そこで私は、哲学をいわばドイツ・ロマン主義のようなドーパミン性のものから、「存在母性論」とでも言えるようなオキシトシン性のものに変更するとともに、有言実行、コンサータの服用を中止し、ASD(自閉症スペクトラム)の諸症状にも効果があるとされつつあるらしいマカを飲むことにした。その結果、実際に人間関係は比較的好転し始めたので、これでよかったのではないかと思うが、同時に、狭い人間になったなというのもまた実感である。

 セロトニン、オキシトシンに仮託されるところの機能は、基層的である。満たされるということがある。一方でドーパミンに仮託されるところの報酬系は、満たされるということがないようである。快楽を得るとよりもっと報酬系を賦活させようとするようである。かつてあんなに楽しかったインターネットが色あせたのも、恐らくこのような事情に由来していると思う。人は神経伝達物質の如何によって世界の見え姿が平気で変わる。だから私は今朝も散歩をして気を遣っているし、動画などを見て泣くということも心がけている。

 ところでオキシトシンを分泌させるのはなにも授乳や交際だけではない。自慰もまた、オキシトシンを分泌させるようである。これぞまさに「自足=自慰論」とでも呼べるようなものではないか。というのは、古代ギリシアのアテナイにディオゲネスという人間がいたらしいが、その者は樽に住み、自足を旨とし、路上で平然と自慰行為に及んでいたという。まさに、自慰こそが自足であるということを示す好例である。ある意味、自慰によって自足すれば、個体のみの排外性に留まり、すなわち個体としての閉鎖系は、もはや排外性とは呼べないという事態にまで行くのではないかと思う。複数名で内輪になるから排外的なのであって、個体がひとり内輪であることを排外的とは、言ったとしても、それはもはや暴力的とは言わない。案外自慰というところに平和の鍵が隠されていたのではないか?

 ところで、身体の過度な強調は身体的暴力に繋がり、精神の過度な強調は精神的暴力に繋がりうる。そこで、自分が身体過剰な人間だと思えば生活に読書を組み込み、逆に精神過剰だと思えば生活に運動を取り入れるとよいのではないかと思う。その身心の中庸は、どの諸徳にもまして大切な中庸ではないかと思う。
 バランスのとれた健康さのうえに成り立つ徳がある。それこそが、足るを知る中で求めるべき人間のあり方なのではないだろうか。

2023年11月2日


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