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マインド・モードの活用術

 太宰治の『人間失格』に、上京した主人公(太宰の仮託)が東京の友人に「「酒」と「煙草」と「淫売婦」」を教え込まされたという記述がある。一方私は、昨年の中頃に「「老子」と「ユング」と「マインドフルネス」」を教え込まされた。恐らく自分の中では、同時期の中枢神経刺激薬コンサータの中止からマカの服用への転換とともに、一つの自分の画期となったと考えている。老子とユングとマインドフルネス、いささか怪しい組み合わせだが、同時期に他の友人から勧められたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をはじめ、河合隼雄のユング本、芥川龍之介の『河童』という2023年夏の読書3点セットと並び、妙に私に効能をもたらしたようなのである。
 そういえば私の高校時代、よくしていただいた進路指導の先生も私に『カラマーゾフ』や吉本隆明を勧めてくださったのであり、また、今指導を受けている河本英夫教授にしても私に三島由紀夫、吉本隆明、土方巽を勧めてくださったりと、何かと最近は周囲への感謝を超えて恐ろしさを抱いているところである。というのは、私が知っている以上に他者が私のことをよく知っているように思えてならないからである。
 要するに今年の夏ごろより書き続けた文章群は、こうしたところが触媒となっているのであるが、その一連の事象は私の中で、私がレヴィナス哲学の一面に付与した名称である「存在母性論」ということで安定化させている。

 そうしたことの結果、私は精神のモードの活用が拡張したと感じている。というのは、私はかつて、三島由紀夫が「おれに無意識はないのだ」と言ったのと同じ感度で、自己の無意識を否定していたのだが、無意識というモードを受容してこのかた非常に生きやすくなったように思う。だから、ちょうど今私はカントの『純粋理性批判』で統覚=Ich denke(「私は考える」)の箇所を読んでいるのだが、このデカルト-カントが定式化して主に近代の文豪などに引き継がれた「近代的自我」の考え方に、懐疑の目を向けているところである。私の目論見としては、「統覚なき統合」ということも考えられるのではないかと構想している。そのことの次第については、デカルト『方法序説』への批評で軽く触れておいたものである。

 ユング派の精神分析家でエラノス会議にも積極的に参加し、『太母の現象学』などを書いたエーリッヒ・ノイマンには、『意識の起源史』という著作があるが、河本英夫は授業で「意識の起源史」と題して意識の人類史的なモードの拡張を語っていたことがある。これは最終講義でも語られたことだが、ここに述べておく。

1、意識とは躊躇の別名である。

 これは、注意や集中、反射反応の制御に関わる能力としての意識であり、これが障害されると注意欠如になるというのが論旨である。

2、道具制作の志向性

 これは、例えば木の棒をまっすぐにするなどの道具制作において、まっすぐにしていく過程でその志向性の彼方に真のまっすぐのイデアを見る、という意識のあり方のことである。

3、ユダヤ教の「絶対超越」

 これは、あのユダヤ教の「律法」がやってくるところの無限性の彼方に「絶対超越」をみる意識のことである。かの一神教が世界人口の多くを占めていることを考えると、見逃せないことであろう。

4、デカルトの自己意識

 これは有名な「コギトエルゴスム」の意識のことである。考えている限り、あるいは疑っている限り、その疑っている私の存在は疑えない。

5、シェリングの活動態を直観する意識

 これはかなり怪しいと思うが、例えば現象学などで言われるのは、「ゴッホの絵」を見た時にゴッホの活動態を直観する、といったようなよくわからない意識のありようのことだそうである。ちなみに、シェリングを「無意識」の発見者としたのは他でもないユングである。


 こうした多様な意識のモードが考えられると言うが、より広く精神のモードと言えばさらに異なるものが取り出せると思う。

参考

精神のモード

1、集中

 これは、「速い思考」と「遅い思考」の「遅い思考」のような、一段深い思考などが該当するが、それだけでなく、数々の作業や課題を遂行する際の処理が該当するはずである。特定の脳部位が活性化している状態である。

2、マインドワンダリング

 これは、彷徨う思考とも呼ばれており、当然大きな個人差があるが、人間が起きている時の大半はこの「デフォルトモードネットワーク」で活動しているようで、脳の広範な部位が活性化し、むしろ集中時よりも脳のエネルギー消費量が大きいようである。これは、例えば眠っている時に無意識的に情報処理をしているという話を思い出されるとわかりやすいかと思う。

3、マインドフルネス

 これはマインドワンダリングの対で、逆に「いま・ここ」に意識以前の自己が集中しているような状態である。

 なお、読書や文章を読んでいる時などは、集中状態であったり、案外マインドワンダリングに近い状態であったりと、読む本によっても変わっていそうな印象がある。私の経験則上、マインドフルネスを身に着けると自ずと恒常的な過集中や緊張が解けて、デフォルトモードのマインドワンダリングを回復できるように感じられる。しかし、マインドワンダリングの状態は、当然、例えばうつ病の人と健康な人とでは心の持ちようが異なるように、個人差が大きいようなので、ここで物質や日常の運動や食事、その他活動などの仕組みとの兼ね合いが大切となる。どうも私では、ここに書く文章の内容は、マインドワンダリング時に無意識下で構成されたものが軽く整理されて表出されているようなところがある。ところで、マインドワンダリング時には、ぼんやりとではあれ未来のことを考えている人の方が幸福度が高いというデータもあるので、そこを念頭に置いてセルフコントロールを高めていけると何よりだと思っている。ある意味では、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした安心」が鍵なのかもしれない。なお、工夫ではなく集中力そのものを高めたい場合、それは前頭葉機能に関わっているので、日々の運動とマインドフルネスの蓄積で、実際にシナプス可塑性により神経の連絡が改善するようである。それを楽しんで続けられるようにするための仕組み化、ということが重要である気がしている。

 このように、私もいよいよこの路線に乗り出し、アロマキャンドルまで購入し出したので、なにか自分で自分をくだらなくしている気がするが、自分で立てる人間になるからこそだらしのない活動も捗るのである。これを「努力」や「苦痛」と捉えているうちは、まだ転回が訪れていないのである。むしろ言えることは、人間は「努力」など続かない仕組みになっているということである。「努力してきた」と主張する人にはそれ相応のインセンティブがあったはずなのであって、それなしに努力できる人間を、私は知らない。

2024年1月2日



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