20年の重たさを感じる

昨日夜中になかなか寝付けず、うつらうつら考えていたことをここに書きこぼしてみる。

※やや長文なのと、誰かにあてて読みやすい文章というより、自分の整理のための表現であるということ、そして、しんどい場面も若干描写しておりますのでご容赦ください。

わたしはおそらく、はたからみたらだいぶ「乗り越えた」人なのだろうと思う。ある意味では乗り越えてきたものもある。例えば、大学中退の危機とか、9年で3回も「乗り越えた」。でも、究極のところで、乗り越えることなんてないって思っている。そのときの記憶にアクセスしていないだけで「そのとき」につながると今でも、きつい。

というのは、1月に入って、しみじみ、寒さが強まるのを感じると3月に寒さの中で亡くなっていった母を思うし(凍死)、20年前の1月から3月の亡くなるまでの毎日は本当に一緒に生きるのがしんどかった。
息子が寝ている寝息をききながら、いつか、このぴとっとくっついている息子も私にふれることがなくなっていくだろうと思いつつも、母の最期、直前まで、兄が息子として、長男として、母を支えていたことを思い出す。

子にとって、親は絶対的なのか。

兄は母を亡くしたあとは「余生だ」といった。それくらい兄が母を支えた人生は兄の人生のメインパートだったのだろう。
わたしが最期、家を出ていこうとする母の手を離したのは、一生消えない罪悪であり、守り抜けなかったことは、消えない。自分のしあわせをとった(つもりだった)。
そして一番守りたかった、自分を守り続けてくれていた兄のいのちも守れなかった。

人は他人(ひと)のいのちなんて守れないのかもしれない。

でも、それでも守りたかったいのちはある。

20年。重たい。とっても。
この長さを、この3ヶ月かけて、味わう感じなのが今年だ。

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