元少年A「絶歌」と現代美術

「読んでおいて本当に良かった」
“セーフ”といった安堵感といったところか。

実際にセーフかどうか分からないが、ひとまず滑り込みセーフの感覚だ。
事件は非常にデリケートな問題を孕んでいるので前置きすると、今回は全くの「私見」であり、誰かに読んで欲しいと促すようなものでもない。ショッキングすぎる事件故、読んで、と言われて開ける本ではないことも私は知っている。

まず、この本は2ヶ月ほど前に芸術のため、必要に迫られて買ったものだった。しかし美しくパッケージに包まれたままamazonから中古で届いたそのフィルムを私は剥がせずにいた。
正直、触りたくも無かった。怖かったからだ。残虐な一コマはwikipediaにも載っているし、そこにまた触れ合うかと思うと多くの人と同様、腫れ物を触るかのように部屋の端っこで少し埃が被り始めていた。事件の事実は知っていても、真理を知らない私は、Aの心の変遷に触れ合うことすらなかった。

しかし、何よりAが小学校の校門でのシーンを「作品」と捉えている節がありそうなことから、美術に関わる者としてその真理を垣間見ることくらいはしても良い。
というか、した方が良い。とも違う。何というか、そういった困惑に自分が居た。

だが、ある「はなし」を聞いてから急に読もうと思った。あるひとから、ある「狂気」のはなしを聞いたわたしは、どうしようもなくひとりで部屋をウロウロしていた。
「どんな普通のひとでも、いつどうなるかわからない」
といった話だった。何かの切っ掛けで、狂気がいつ人の心に表出してしまうか分からないなんて、何の解決策もないじゃないか。
そのひとと別れたあと、この気持ちをどうアウトプットすればいいか困惑した。
このnoteを使って日記のように綴ればいいのか。
tweetすればいいのか。
以前からよく解決策のようにやってきたように、絵画制作をすればいいのか?
それとも誰かと議論をすればいいのか。


全部違った。

わたしはある物の存在に気が付いた。

「いま『絶歌』だ」と。

急いで埃の被りかけたラッピングをビリっと剥がした。
中古とは思えない、まるで新品の、重たいハードカバーを開いた。



一週間かけて反芻した。


この一週間は、自分にとって変化の一週間だった。


なぜか、愛おしいものを触るかのように、新しいオモチャを買ってもらった子どものようだった。トイレに持ち込み、持ち込まないときは急いでトイレから出て本を開いた。

(オモチャじゃないんだから)

不謹慎という言葉や倫理という言葉でも括りたくなかった。美術のプレイヤーにとっては、興味の思想のほとんど全てだった。創作への動機として、人間社会での“生きずらさ問題”として、同じ80年代生まれとして、身近な問題だったのだろう。

話たいことはたくさんあるのだが、何から話していいのか分からない。
自分のメモに大きく書いた「贖罪」の一文字。
彼が言い放った「精神的奇形児」。
「発達障害」。
ぼくの中に“燻る”という表現。“黒いシミ”になって広がる、という表現。
たしかに事実的な、生きるなかでの倫理観が描かれている。


生きるとは何か。


わたしの運営する美術学校は2020年の夏で8年目に入る。芸術に関わる人間は、どのような変遷で芸術の世界に足を踏み入れるのか。それはこれから美術に関わりはじめる人たちだけでなく、段階の時を経て、今の美術業界全体に当て嵌まることでもある。芸術の発生源とその道を選択する者がどのような人たちなのかをこれまで運営しながらずっと考えてきた。私が教える人たちは、まだアートの段階としては初期段階[A]に当たる人たちだ。少年Aもまた、このアートの段階[A]、すなわち美術のイロハの[イ]に当てはまる立場だ。


2019年の夏に、「わたしは“現代美術”のスイッチをポチッと再生したよ」と、時と場合によってはそう言うようにしていることもある。何だか面倒臭い話に聞こえるかも知れないが、2009年に大学を卒業して、“一旦最後の”、所謂アーティストらしい活動としてCAMPでやった展示以来、「展示」はやらず「kotte」をやった。絵画制作や立体制作は継続してきた。kotteは美術教育の設計と捉え、敢えて「現代美術」とは言わず、「美術活動」とした。この活動こそ一過性の作家活動ではなくBAUHAUSのような興りとして、美術史に遺すつもりで行う自分が居る。それで、夏に押したその明確な「現代美術」のスイッチとは一体何か。これまでコンスタントに私が行ってきた「絵画制作」等とは一体何が違うのか。以前よりnoteで「二分化した芸術」について触れてもいる。作家としての決意表明と共に現代の美術作家と関わることへの決意表明でもある。

世間知らずアーティストは痛々しいから、一旦世間に身を置いて「建築」の理論に身を委ねた10年間だった。「絶歌」への思考を通して更にそのスイッチが明確に、自覚的になる。


それを読み始めた2日間は、「狂気のスイッチ」と呼んでいた。


読み始めて4日間も、「狂気のスイッチ」と呼んでいた。


6日目も、同じくそう呼んでいた。6日目の時点で、わたしは二部構成であるこの本の「第一部」をゆっくり読み終えるくらいまでだった。7才の娘には優しくなった。子どもを持つ受講生にそのことを伝えると「育児本?」と言われ、笑い合った。


7日目、わたしは「狂気のスイッチ」とは呼べなくなった。
何だろう。そんな簡単なことではない気がする。と言うかそんな簡単なことではない。芸術をいかにラディカルにやるか、が重要では無いように思えた。
もっと人としてのなにか。そう。相手を傷つけたら、言葉にはならないほどの自分自身が苦しむ、と言うことだった。

芸術のある「過激性」と同様に、お笑いの世界での、ある「過激性」もその場を楽観的におもしろくさせる。


一方で、社会や場に忖度する作品や作家の態度には私は懐疑的で、芸術の真理とは程遠いように感じる。

分類化された美術業界での形振りはその作家にとって窮屈な状態に他ならず、そのビジネススタイルは鬱状態へと変化させる。

だから救いたい。だけど誰も救えない。自分の力なんかじゃ全く救えないし、作家自身も満足した自己承認と自己肯定感であれば、その状態を良しとしている。救いすら求めていないのかも知れない。

だけどそういった「アートの状態」を見ても、形式化されたそれらに対し私自身全くの「尊さ」や「必然性」は残念ながら感じることは出来ない。ただただ、悲しくなってしまう。

人は人のことなんか絶対的に救えず、仮に救ったとしてもその後の責任なんかも絶対に負えない。いつだって世界は「仕方のないもの」としてわたしをいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも苦しませ続けている。


こんなことを書いていると本当につらくてつらくてしょうがない。人と人とは本来的に価値観の接合なんてできず、わたしはいつまでも孤独なままだ。毎度毎度の落胆と絶望に「こんなにがんばる必要なんてないんだよ」「何でこんなにがんばるの?」と聞こえてきそうだ。

人間社会の摂理なんてこんなものか、と、例え80を過ぎた私でも今のように戦い続けているか?

わからない。


「贖罪」と言葉をメモに大きく書いたが、そのことがわたしを大きく苦しめている。いや、そんなに苦しいことなんかじゃないとも捉えられる。だって、相手の苦しみに目を向けなければ、そのことにさえ、気が付かないんだから。
だけどこれは今までわたしが生きてきたなかで積み上げてきた「罪」の塊は暴力だけでなく言葉や振る舞いにも隠れているということだ。単に美術という学問においての発展性のためだけに、過激性を正当化することもできない。相手が傷つくことを恐れていては、面白いことができない、とも捉えられる。


だけど(ここから中学生の話)

ダチョウ倶楽部が熱湯風呂に入っているシーンをわたしは見られない。志村けんが死ぬほど好きでビタシーゴールドの電車内ステッカー広告が欲しくて毎日毎日同じ車両に乗って剥がそうと企てている割にけんの電車内痴漢プレイネタが来ると凌辱性故にチャンネルを変えてしまう。松っちゃんが浜ちゃんを思いっきり殴ったり浜ちゃんがキレるネタを観ても怖くて怯んでしまう。「羊たちの沈黙」や「サイコ」という漫画も情景が不安と共にフラッシュバックする。科学実験をする人類は稚拙で、相手の気持ちを読み解けない成長障害と捉えてしまう。いつまで思春期やっているの。

Aの時代は猟奇含め怪奇謳歌時代で、85年生まれのわたしにはちょっと懐かしい時代でもある。電気グルーヴもいるし、ビジュアル系も出始めて、パンクも流行って、ヘンなほど良くって、ファッション誌のフルーツとか、原宿系とか。90年代は得体の知れない世紀末故に「もしかしたら死ぬのかも知れない」と自暴自棄、空騒ぎの時代だった。

私も当時、むやみやたらに騒いだり学校でイタズラをした。仲の良い友達がAのことをカッコイイ(ハート)と言ったり、その友達と小説や漫画を書いてよく遊んだ。学校内の隣人を物語にキャスティングして、毎朝学校で、家で書いてきた互いの「作品」をこっそり見せ合いっこして笑い転げるあの時間は大好きだった。

タバコを吸う友達からの誘いは断った。

ところがミレニアム、カウントダウンと共に、生きている拍子抜けの時代と一気にドラッグのような高揚感に達した。

電気グルーヴ的な文化形成は自分のなかだけか、世の中もか、一気に壊れ、日々学校の帰りにカラオケ館へ行き、ミニモニ。やる。付き合う友達は一気に変わった。校則を破るようになった。

遅刻して、欠席するのが良い。バイトして、恋して、彼氏作って、焼肉食べて、オールして、スカート短くできるとこまで短くして、夏に髪を脱色して秋に黒染めしては始末書を書く生活。始末書数が退学まで一気にリーチ。彼氏と別れて、また恋して、また彼氏作って。恋バナして、プリクラとって。マック行く。至って普通の女子高生じゃないか。

遅刻多過ぎて、起きれないし、そのうちに親には学校呼び出しの封筒が折り重なる。浜崎あゆみ。冷たい湘南の夜風に咽び泣くエドワード・ホッパー的な圧倒的な虚無。勘違いしたティーンズ空虚の共有。オールした夜のセブンイレヴン。露出狂、爆笑。ナンパと連れ去り。夜のラウンドワン。ボーリングのレーンと親からの鳴り響く携帯電話。あ、じぶんの番。

夜の国道134号線のドライブ。夜の砂浜と彼。見つめ合う二人。

ミレニアム時代の幕開けだ。


絶歌6日目(第一部)までのわたしは、ムカつくあいつを殴ってやりたい、と思っていた。ちょうど世紀末からミレニアム期に差し掛かる、社会に対して堂々とした姿勢をとる湘南生まれヒップホップ育ち感覚で、あいつをコテンパンに殴ってやる!!!!!!!!殴り返したいなら殴り返せばいい。わたしは女だけど男だと思って思いっきり殴ればいい!!!殴り合わないとアート界は変わらない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!お前は〇〇や〇〇に○され○○されている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!死ねこのクソ野郎!!!!!!!!お前も言いたいことを言え!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ふざけんな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


と、わたしととある芸術家〇〇の殴り合いのシーンの妄想に浸る。

本当にアート界が震撼しちゃう。コワイコワイってザワついちゃう。

じゃあ、あの大事そうにしているメタファーとしての〇〇の○を思いっきり足蹴にしたろか?????????????????

...って。だめだよね、それは多分。え?だめかな?

みんなに迷惑をかけちゃうし。ラップバトルじゃないんだから。平和じゃない。え?だめかな?

聞いててイライラするね〜〜。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ どうなっても本望だわ!だけどみんなも傷ついてしまう。..ううん........いろんな妄想が膨れ上がって行く........................。危険だ。わたしが現代美術のスイッチを入れることはきっと危険行為なんだ。どうせ独りなんだ。わかってる。ずっと独りだったから。だけど狂気こそ芸術だ、って言いたい。


「狂気展」というのを開いたら、すごく注目されるんじゃないかな。オススメの5組くらいしか居ない(コッチの)狂気を持ったアーティストだけを集めて、アノひとと、あのグループと、あの〇〇しちゃうひとと、アノひととアノひととで、狂気展を行う。これは美術史に遺る大傑作だ。

完全に時代と呼応している。


と、通常美術前衛ベースだと、これを遂行するのみである。絶歌6日目までは。


しかしここでなぜわざわざ「絶歌」についての感想、私見が必要なのかというと、「そうとも言い切れない深い話」だからである。



7日目の朝、一年生の娘を学校へ見送ったあと、わたしは早く続きが読みたくていつものヒーターの前で三角座りをして第二部を開いた。


Aは本の最後でひとまずこの2015年の時点での「納得」として、「生きるのは苦しい」という結果で綴った。

それはどうしようもない、被害者に対しての解決の方法が見つからない。解決への問いが途切れることはこれからも無く、ただただ生きて生きて、普通の人と同じように生きて生きて、生き抜くことしかできないという結論だった。


Aの心の変遷の事実に、同意はしている。はじめに書いたように、「ひとはいつどうなるかわからない」からだ。危険人物でもなんでもない。偏見を取り除くと、むしろ優しい人物だ。サディズムについて、性的倒錯についての言及が第一部で再三されているが、私見では、強くこう言いたい。


人間にはサディズムも性的倒錯も存在しない

サディズムや性的倒錯は慣習である


私自身が完全にノーマルだからこう思うだけだと思う。

何の性的倒錯もなければ、サディズムは嫌いだし、変な性癖もない。相手から変な性癖を突きつけられてしまうと吐き気がし、関係が続かない。

女は大抵そうだ。真面目にキモい。何でそんな「執拗に」性へ拘るの...。

だからそういった「癖」は、全てただの結果であり、錯覚であるということがわたしの本当に主張したいことだ。しかも本人もそれに気が付いている。

ヒヨコが生まれて初めて見る相手が親だと思うように。人間はルーティンを好む動物で、変化を嫌う動物だ。体内時計があるように、無自覚ながら身体的な反応を起こしてしまう。その無自覚さゆえ、「錯覚」と「性質のカテゴライズ」に陥ってるだけなのだ。

しかしわたしが何の性的倒錯もないノーマルな人間なのもおそらく、自分の家庭環境が、常に「蚊帳の外」で俯瞰して見ていなければならない存在だったからかも知れない。

私は四人兄妹の末っ子で、家庭内で自分の思想を主張することは無かった。だからこそ「家族全体」を俯瞰する「慣習」が身についてしまったと言える。ただその俯瞰する状況は何のアウトプットでもなく、ただの分析に当たる。だから思春期以降、しばし狂ったように・狂った、破滅的な作品制作や文章表現をしてきた。


サディズムは本来的に人間に備わっている狩猟本能のようなものの名残だと思うが、人の「慣習」の表出のタイミングによって、表出の環境要因によってサディズムの強弱が異なる。

愛情深く育てられたAは、「暇」だった。ただ「暇」という「慣習」のなか育っただけである。彼は自分のことを「精神的奇形児」と原理化したが、それも違う。ただ単に、愛情に事足りなかったために生活に不和がなく、意識を「ほか」へ向けなければ「遊ぶ」こともできなかったからだ。

毎日過酷な状況のなか、不安な毎日を過ごしてごらん、と言いたい。不和な日常は平穏を求めるものだから。性的倒錯も同じで、そこへ意識を向けるほど「暇」であったと言える。

これはわたしの勝手な解釈だから本当に性的倒錯で悩んでいるひとは憤るかもしれない。ただ、人間はみんな同じなんだ、ってことは言いたい。誰も何にも、ヘンじゃない。自分をヘンだと決めつけないで。それはただの慣習だ。


同時にもう一つ気になったこと、恐らくこれがこういった創作の正当化に当たる。それが「アブノーマルへの陶酔」だ。

人はアブノーマルに対して自己陶酔を催す生き物なのかも知れない。

誰かに構って欲しい気持ちの現れだと思うが、絶歌を俯瞰して見ると、主観的な表出時と、客観的な説明時に、ワザとらしく大きな文章表現の差異を作っている。

被害者の遺体や猫の命を損壊する描写はもちろん、パンにジャムを塗りたくる描写もやたらと細密で奇をてらった表現である。

映画「ブレインスキャン」に対して「オチがサムい」と評すること。表現されたものに対してギャグセンスが高い、とか猟奇的なものに対して、パンクでも楽しむかのような「デザイン化」されたパッケージに酔い痴れ、表層的に笑う評価の仕方は本質的でないのはもちろん「こんなにグロテスクなものでもオレ平気だぜ」という何だか愚かな姿勢だなあと感じてしまう。

しかし生物学的に、身体的なリアリティと思いやりは男性には無いから仕方が無いのかな、とも思った。


少しだけ女性のことを説明すると、女性には月経があり否応にも月イチで自己の身体へ耳を傾けなければいけない。

お腹はとても痛くなる。月経不順などがあれば将来の妊娠を心配するのでどのみち将来産むかも知れない赤ちゃんのことを考えざるを得なくなる。排卵痛も月イチでおこる。

年頃になり性交渉をすると、避妊具を付けたかどうか、避妊具が破れてしまった、とか避妊具が奥で外れてしまった、とか避妊具に対しての信頼を常に図らないといけない。何というかロマンスでありながら気が気でない。キュンとした感情を抱えながらも、実際に避妊具が外れてしまったり、装着しなかった時の事後の心配で頭がいっぱいになる。こうなったらの「覚悟」を持つことには、男性側からは想像がつかないかも知れない。もう何というか、この人を父親に迎えよう、という覚悟まで勝手に醸成されていくか、またはこの人とだけは死んでもイヤだ、って時は、堕胎のことを考えざるを得ない。命の重みで精神が破壊される。若しくは未婚の母になる決意までする。........次の月経が来るまでは......。そうして約1ヶ月間に渡って、人生のシミュレーションをやり過ごし拭えない不安な日々を過ごしながら、次の月経が来る。この時のギリギリセーフ感と言ったら.......。

また、ある年頃になると今度は妊娠を希望するようになる。自己の身体ながら、妊娠の計画という排卵期の予測と何だか分からないが一人で勝手にもどかしくなる。男性側は精子の提供という感覚なのか分からないがとりあえず性交渉をこの日にしようとする事務的なやりとりとロマンチックに演出する素振りを見せるのか。いや、分からない。この何とも言えぬ男女間の温度差なのか。若干パニックになる。自分の身体が資本となり、自分の身体がまるでこれからの互いの人生の「工場」のような責任感でいっぱいになる。一人で困惑した状況が続く。晴れて妊娠をすると、異常なほど自分の身体を意識する。.........怖い.....。ちょっと待て、腹に命が居るぞ....................................。この怖さは何物にも代え難い。想像するだけで「つわり」が起きそうだ。想像妊娠や想像悪阻もあるくらいだ。男性ももしかしたらこういう遊びくらいならできるかも知れない。まず自分に宿った命は流産することなく無事に育つのか?初めての妊娠。特に妊娠初期というのは目立った見た目への変化が無く、不可視からの不安で毎日押しつぶされそうになる。だから定期的な妊婦健診でのエコー写真が不安を払拭してくれる。娘の1cm、心臓ピコピコは可愛かったなあ。

少しだけ女性の身体について話すというのは困難だ。

胎児の身長1cmから、ピンポン球、グレープフルーツ大と徐々に育ち母親としての自覚も完全に形成された妊娠中期。性交渉については色々と省いておくが、自身の身体について、猛烈に意識する時代だ。

切開したり吸引したりの痛々しい出産も含めて。

出産後二日後にやってくる乳房の張り。夜中にビスケットを貪り食う。噴水のように母乳が出る。アチコチ部屋中に母乳の飛沫が..。これが己の身体.......................................。

と、ここまでは堕胎や流産、不妊治療、順調な妊娠経過か否か、妊娠中毒症、難産、死産など、女性の身体経験のなかでも差異があることに触れておく。

頼むから世の中大変だから、男性もそれを軽々しく「嫉妬」とも呼ばないでくれ。無理なもんは無理なんだよ。「妊婦体験」的な諸行動、諸作品には弱冠の違和感と否定と解決策ではない結果と茶化しに対しての苛つきが残る。他のコンセプトを当たってみては如何か。

男性側に精神的な母性の欠如があるわけではない。生物学的観点から、もともと男性の生殖機能には、母性の隙間がない。もちろん精神自体にも備わるはずがなく、「他人事」なのも仕方が無い。

ただ結婚制度の観点から、少しだけ、女性側からも少しだけは期待したい、というのが本音となってしまい、男性側も身体的なリアリティの無さについて若干の劣等感がある。その摺り合わせが、男女の、人間社会の思いやりというところだろうか。


美術業界や音楽、映画など一般カルチャー業界も、こうした身体性への反動なのか現実味の無さからなのか、男性ユーザーが殆どを占める「狂気賛美」や「奇怪賛美」を茶番とするなら、良しと判断して良いのかもしれない。ホラー映画的、アングラ的なミニシアター系好奇心を普及させていくことは、人間の猟奇性や怪奇性を公開することでもあるから商業戦略としてはスタンダードだ。


私は作家だからその辺り心配になってしまうのだが、作家自身がその猟奇性や怪奇性、また美術の出発点を自分で持てず年齢に合わずに悩むなら、やるべきではないように思える。それは馴れ合いになっていて母性的な観点から、酷いな、って思う。「大丈夫?」と言いたくなってしまう。すぐ「うるさい!」て声が返ってきそうだ。しかし作家自身もいつでもそこから離れゼロスタートする事が出来て、いつでもそれを楽観的に茶番として捉える事ができるのなら、むしろ面白いから大いに賛成だ。


だが、最後に大きな問題点として挙げたい事がある。これはただ単純に当たり前のことで、きっと誰もが分かることだと願いたい。


気持ち悪いから

かわいそうだから

悲しいから

苦しいから


ただそれだけだ。何の理由も無い。

それは、いい歳してどうなの?っていう疑問符でもある。私たちはもう少し大人にならなくてはならない。この時代には古く効果的ではないと思うし、子育てをする時代感覚からは大きくかけ離れ、思春期真っ盛りの幼児的観点は痛々しい。矮小化されたヒッピー的メンヘラ的閉塞感ではなく、時代を超えた、建設的な美術の発展を願うならば。


人間は本来的には「ひとつ」だったと思う。大ーーーーきな粘土の丸い塊で、神様がそこからをひとつひとつ千切ったんだとおもう。みんなお母さんのお腹の中で、おなじかたちをしていた。身体的な奇形は仕方がないとおもうけれど、精神的な奇形は存在しない。悲しいからやめてくれ。


現代美術のスイッチを押す前の私なら、激しくAを糾弾していた。よくも自分のことを棚に上げて糾弾できるよなあ、と思う。倫理的にそれは間違っているとか、福祉観点からこの手の話題はタブーだとか、そんなものは本質的に相手を理解する態度ではなく、逆説的に愛ではなく暴力と言える。正義と暴力の関係は、偏見と蔑む視線を送り性的倒錯者や狂乱者を更に窮地へと追い込む。みな人には言わないが、世の中ではタブーな一面を自分のなかに持っている。


Aのなかで「答え」に当たる箇所が本の最後にあった。「人殺しをなぜしてはいけないか?」の問いに対して、「自分も一生苦しみ続けるから」と絶対に消えない罪の刻印と共に、苦悩した人生になってしまうことを人にはお勧めできない、という答えのようだ。過ぎてしまったことは取り返しがつかないのは周知の事実で、罪への解決策はそもそも存在し得ない。解決策がない苦しみこそが現実で、少年法ゆえ制裁を受けることが出来ず、人は人の優しさに触れ合いながら生きていかなくてはならない現実が苦しいというただの現実。恐ろしいほどの現実。だけど往往にして、みんなそうなんじゃないか、ってことだ。結局現実なんだ。社会が存在して、文明があって、男と女が居て、逃避も出来ずに、ただただ現実がある。どうしようもなく、そこに向き合うしか無い。そこに抵抗すればするほど世間知らずで愚行で思春期真っ盛りのまま時代が止まった、お前一体幾つだよ、って。否応にも大人になるのだ。世の中大変だから。美術が世間知らず集団になったら、それは痛々しいな、って、ただそれだけだ。


Aはよくペーパークラフトやコラージュなどの創作活動を仕事から帰ると自室で行ったと書かれているが、自己表出、アウトプットは人間の建設的な行為だと思った。



Aは逮捕時から現在まで、思い通りにならない現実を突きつけられ続けた。

当初少年法の存在が分からず当たり前に「死刑」になることを待ち構えたのにも関わらず「死刑にならない」ことに対して。

自分のやったことに社会からの制裁が加わらなかった絶望感に対して。いくらどうしても抵抗しようがないこの自分と関わる人間が自分に優しくする無情な世の中に対して。

公園で赤ん坊連れの親子を見たような優しい世界に対して。

罪が罪として制裁を加えてくれない世の中に対して。自分が殺めた年齢と同じ子が屈託の無い笑顔で寄ってきたことに対して。

Aはただただ焼け付くような痛みを感じて生きている。

再犯があるかどうか、更生したかどうか、自殺すればいいじゃん、は社会的判断材料の一つであり、フェイストゥフェイスでの本人の本質的な精神的動向へ目を向けたものではない。問題の無い倫理を突きつけるのは死刑や暴力の正当であり、私自身は怖いな、と思ってしまう。人はみんな罪人であるから、自分のことを棚には上げられない。

それに私は美術の立場だから言えることだが、絵画でも文章でも創作活動をすることは人間の本質行動であるから勝手にプッシュしていきたい、そこに歯止めを掛けるような立場でもない。


ギブアンドテイクとよく言うが、ギブギブでないとダメだなあとよく思う。テイクを期待するのは本質から虚実生を帯びてきてしまい、やっぱりテイクを露骨に感じる。ギブすることをし続ければ、同時に色んな「うれしい」がついてくる。わたしはそれを「芸術行為」と受け止める。アウトプットとも言える。


「絶歌」は彼にとってのギブの結果だとわたしは捉えた。



結果的に、育児本でもあり美術本でもあった事実。


子どもの居る身からしても、まだ、そう言いたくもないし、酷すぎる事件で、最大限の軽蔑を向けるが。




(2020.2.13 後藤てるみ,現代美術研究所にて)