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ぼくの願い 第二夜

 いつからか結婚なんてまったく人事だと思うようになっていた。女優という仕事がそう思わせたのかもしれない。
 私が芸能界に入ったのはもう十六年も前の話。当時、二十歳だった私は、モデルとして男性雑誌のグラビアを飾っていた。そんなモデル生活を送りながら、テレビのバラエティー番組にも何度か出たりしていた。
 二十三のときドラマ出演の話が来た。本格的なドラマ出演はそれが初めて。もちろん脇役だけど。
 そのドラマは好評だった。その後、私にもドラマ出演の仕事がよく入り、お茶の間に顔が知られるようになった。私は知らぬ間にモデルから女優になっていた。
 そして二十六歳のとき、ついに主役。サスペンスドラマのOL探偵というのが私の役どころ。ドラマは三クールで打ち切られたけど、名を売ることに成功して三十六歳になったいまも仕事には困らないでいる。もちろん仕事はテレビがメイン。吉永小百合さんのような大女優には遠く及ばない。でも私はいまの仕事に満足している。あんまり野心がないのよね。
 問題は私生活の方。私はいまだに独身なのだ。仕事が女優だから周りの人はなにも言わないけれど、さすがにそろそろと自分でも思う。
 じつは結婚どころか、彼氏いない歴十三年のけっこう寂しい女だったりする。二十三で初ドラマに出演したあと彼とすれ違い生活になってフラれてから男性とはつき合っていない。このさい白状すると、男性経験はその元カレだけなんだよね。
 私は変なところで奥手というか、古風というか、芸能人らしく派手に遊ぶことが出来ない性格で、芸能界で出会う男性とは肌が合わない。そんな性格だからこの世界ではなかなか恋人が出来ないわけ。自分でも分かっているんだけど、こればかりは仕方がない。
 そうは言っても、やっぱり結婚願望みたいなのはあって、三十前は人並みに焦ったりもした。それも三十五を過ぎると、諦めというか、結婚なんて自分には関係のないことだと思う方が楽になっちゃった。だって無理に結婚にこだわって失敗したくないし。
 要するに臆病なんだよね。わかってるけど、どうしようもないじゃない。
 ところが、そんな自分が百八十度変わってしまう日が訪れたのだ。
 それはドラマの収録で、ある大学の研究室をロケ地に使わせてもらったときだ。その研究室の助教授が立ち会って下さったのだけど、私はその助教授を見た瞬間、なんと胸がときめいてしまった。まるで女子高生に戻ったみたいに。
 助教授の名は川島宗一郎さんと言った。彼は物理学者で、なんでも量子力学が専門なのだとか。私にはなんのことかサッパリだけど、とにかく頭がいいのは間違いない。容姿もいかにも学者風。
 でも勘違いしないで欲しい。学者風と言ったって、ボサボサ頭でだらしない服装とかじゃない。とってもオシャレなのだ。少し長めの髪と丸いフレームの眼鏡がすごく知的な雰囲気。着ている服もブランドでこそないけど、清楚で好感が持てる。なんだかそこに立っているだけで、気品が漂ってくるような人なのだ。
 完全に一目惚れだった。
 一目惚れなんて本当にあるんだ。と自分で感心した。まったく説明できない。まるで、魔法にかかったような気分。
 宗一郎さんは(キャーッ、宗一郎さんだって!)、テレビ局のクルーが忙しく動き回っている研究室の隅で、彼らの動きをじっと観察していた。私は高鳴る胸を押さえながら彼のそばに近寄った。
「あの、先生」
「はい」
 宗一郎さんは私の顔を見てにっこりほほえんだ。かっこいい。ああ、気絶しそう。
 そんな私を見て不審に思ったのか、宗一郎さんが首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「あっ、いえ!」
 私は彼から視線をそらしながら言った。
「あの、申し訳ありません」
「なにがですか?」
「いえ、お仕事場をこんなにしてしまって……」
「とんでもない。場所を提供すると決定したのはうちの大学ですよ。これもぼくの仕事のうちです」
「ご迷惑をおかけしなければいいのですが……」
「テレビ局の方は気を使って下さっていますよ。でも驚いたな」
「なにがです?」
「だって、浅井さんは主演女優でしょ? そんなことまで気を使われるんですか」
「あ、その……やっぱり気持ちよく仕事をしたいですから」
「そう言っていただけると、場所をご提供したかいがありますよ」
「ありがとうございます」
「いいえ、とんでもない」
「あの、先生……」
「その先生ってヤツはやめにしませんか」
 彼は照れくさそうに言った。
「どうも先生って呼ばれるのは苦手でして」
 ああ、やっぱりこの人は、見栄や権威なんてものとは無縁なんだわ。
「じゃあ川島さん。で、よろしいですか?」
「けっこうです」
 私は思い切って聞いてみた。
「あの川島さんはおいくつなんですか?」
「三十八ですけど、それがなにか?」
「いえ、あの、すごくお若く見えるから……三十八で助教授というのは普通なんでしょうか?」
「たくさんいますよ。でもまあ少し早い方かな」
「すごいですね」
「いいえ。決して誇れることではありません。研究に没頭した結果ですよ。おかげで家族には辛い思いをさせました」
 家族? やだ独身じゃないの!
「ご結婚なさっていらっしゃるんですか?」
「ええ。娘がいます。妻とは六年前に離婚しました」
「あ……ご、ごめんなさい。あの……」
「お気になさらないで下さい。ぼくの方こそ変な話をしてしまって申し訳ない」
「とんでもありません」
 私は首を振った。
 私は彼についてずいぶんと情報を得た。そうか娘さんがいるのね。でもいまは独身なんだ。ふむふむ、いい感じ。
「浅井さんは、ご結婚はまだなんですか?」
「はい!」
 あっと、いけない。つい大きな声を……
「え、ええ。まだです。もらってくれる相手がいないんです」
 ああ私ったら、なんてマヌケな答え。
「ははは、まさか」
 彼はさわやかに笑った。
「浅井さんのように素敵な方なら引く手あまたでしょう」
「そんなことないです!」
 あっ、また大きな声を。私ったら。
「いえ、そんなことありません。私は……」
 と、そのときアシスタントディレクターの佐藤君が私を呼びに来た。
「浅井さん、スタイリストさんが探してましたよ。そろそろ、ロケバスの方でメイクに入っていただけませんか?」
「あっ、はい」
 ううう、残念。もっと、宗一郎さんとお話がしたいよ~。

 ぼくが結婚したのは二十歳のときだ。学生結婚だった。妻は同じ大学の学生でフランス文学を専攻していた。
 この結婚は完全に失敗だった。ぼくは理論物理学の研究者で、はっきり言ってお金に縁がない。その上、余りにも若すぎたから経済的に家庭を支えることが出来なかった。結婚して二年目に娘が生まれても、もっぱら妻の翻訳業に収入を頼っていた。
 ぼくがなんとか収入を得られるようになったのは、結婚六年目のことだ。大学の講師のになれたのだ。残念なことに、そのときはすでに遅かった。妻はとっくの昔にぼくに愛想を尽かし、夫婦の関係は冷え切っていた。
 妻は仕事で外国に行くことが多くなった。特にフランスだ。いま思えば仕事だけでなかったのは間違いない。
 けっきょく十年目の結婚記念日を迎えることなく、ぼくらは離婚した。彼女はフランス人の恋人と再婚し、いまはフランスにいるらしい。
 ぼくは当時、八歳だった娘を引き取り、なんとか一人で育てた。まあ、よい父親ではなかったと思う。なるべく娘のために時間を割いたつもりだが、学者として脂が乗り始めた時期でもあり、どうしても娘に寂しい思いをさせることが多かった。
 ところが親がなくとも子は育つというか、ダメな親にはしっかり者の子供が出来るというか、娘はまっすぐないい子に育ってくれた。おかげでぼくは娘に頭が上がらない。
 娘は家事のすべてを取り仕切っている。炊事も洗濯も娘の仕事だ。なんでもぼくが手伝うより、一人でやった方が十倍能率的なんだそうである。ぼくの仕事はせいぜい食器を洗うことだけだ。
 それだけじゃない。娘はとてもオシャレにうるさくて、ぼくがだらしないかっこをするのをすごく嫌う。ぼくの髪型も眼鏡のフレームもみんな娘のコーディネイトだ。もちろん、ぼくの着ている服もそうだ。パンツ一枚に至るまで娘の趣味。さすがフランス文学者を母に持つだけのことはある。高校生になったいまは、娘がわが家のボスと言ってもいい。
 そんな娘が最近、ぼくに再婚を進めるようになった。母親が欲しいのかい? と聞いてみたが、あたしはパパのことを心配しているのよ。と切りかえされた。まったく娘にそんなことを言われるなんて、よっぽどぼくは頼りないんだな。
 でも、ぼくには再婚の意志はなかった。結婚に臆病になっていたせいもあるが、いまさら、他人をわが家に迎えてギクシャクするのは嫌だ。だからぼくはずっと独身を通すつもりだった。
 ところが、そんな自分が百八十度変わってしまう日が訪れた。
 その日、ぼくは大学が研究室をドラマの撮影に貸し出すというので、立ち会いという仕事を仰せつかった。テレビ局の人が高価な機械を傷つけないように気を配るわけだ。ようは、ただ見ているだけなのだが。
 そこで浅井祐子という女優に出会った。ぼくは彼女のドラマを見たことはなかったが、顔だけは知っていた。実物を見るのはもちろん初めてだ。
 なんと胸が高鳴った。たぶん一目惚れだと思う。まさかこの歳で、と自分を疑ったが高鳴る胸を抑えることは出来なかった。まるで魔法にでもかかった気分だ。
 ぼくは研究室の隅で彼女をそっと見ていた。すると彼女の方からぼくに近寄ってきた。
「あの、先生」
「はい」
 ぼくは彼女を見た。胸の内を悟られないよう注意しながらほほえむ。ところが彼女は、ぼくの顔を見て驚いたように口を開けた。
「どうかなさいましたか?」
 ぼくは、あわてて聞いた。
「あっ、いえ!」
 彼女はぼくから視線をそらした。
「あの、申し訳ありません」
「は? なにがですか?」
 困った。ぼくはなにかヘマをしたのだろうか。自慢じゃないが、ぼくは物理の法則なら得意だが、女心はとんと理解できない。
「いえ、お仕事場をこんなにしてしまって……」
 彼女はすまなそうに言った。
「とんでもない。場所を提供すると決定したのはうちの大学ですよ。これもぼくの仕事のうちです」
「ご迷惑をおかけしなければいいのですが……」
「テレビ局の方は気を使って下さっていますよ。でも、驚いたな」
 そう、ぼくは驚いていた。彼女は女優だ。それが、なんと謙虚なことだろうか。
「なにがです?」
 と、彼女。
「だって浅井さんは主演女優でしょ? そんなことまで気を使われるんですか?」
「あ、その……やっぱり気持ちよく仕事をしたいですから」
「そう言っていただけると、場所をご提供したかいがありますよ」
 ああ、この人は女優である前に、しっかりした大人なのだ。ぼくはなんだかうれしくなった。
「ありがとうございます」
 と彼女。
「いいえ、とんでもない」
「あの、先生……」
「その先生ってヤツはやめにしませんか」
 ぼくは言った。彼女に先生なんて呼ばれたくない。
「どうも先生って呼ばれるのは苦手でして」
「じゃあ川島さん。でよろしいですか?」
「けっこうです」
「あの川島さんはおいくつなんですか?」
「三十八ですけど、それがなにか?」
「いえ、あの、すごくお若く見えるから……三十八で助教授というのは普通なんでしょうか?」
「そうですね。少し早い方かな」
「すごいですね」
「いいえ。決して誇れることではありません。研究に没頭した結果ですよ。おかげで家族には辛い思いをさせました」
 ぼくは、正直な気持ちを話した。こんなこと言ったのは彼女が初めてだ。
「ご結婚なさっていらっしゃるんですか?」
「ええ。娘がいます。妻とは六年前に離婚しました」
「あ……ご、ごめんなさい。あの……」
「お気になさらないで下さい。ぼくの方こそ、変な話をしてしまって申し訳ない」
 ぼくは後悔した。これから仕事をする浅井さんに、変な気を使わせてしまった。
「とんでもありません」彼女は首を振った。
 ぼくは話題を変えようと思った。
「浅井さんは、ご結婚はまだなんですか?」
 な、なんてこと聞くんだ、ぼくは! ああ本当にぼくはダメだな。女優さんに質問することじゃないだろ結婚なんて!
「はい! え、ええ。まだです。もらってくれる相手がいないんです」
 彼女は答えた。なんていい人なんだろうか。ぼくのマヌケな質問に答えてくれた。
「ハハ、まさか」
 ぼくは彼女の気分を壊さないように言った。
「浅井さんのように素敵な方なら引く手あまたでしょう」
「そんなことないです!」
 彼女が大きな声を出した。どこまでも謙虚だ。
「いえ、そんなことありません。私は……」
 と、そのとき。テレビ局の人が彼女を呼びに来た。
「浅井さん、スタイリストさんが探してましたよ。そろそろ、ロケバスの方でメイクに入っていただけませんか?」
「あっ、はい」
 彼女はぼくに頭を下げるとロケバスに走っていった。ううむ、残念。もっと浅井さんと話がしたかったな。

 ドラマの収録は無事終わった。ああ、なんてこと。あれから宗一郎さんとお話する機会がなかった。いくらつぎの仕事が控えてたって、挨拶もしないでテレビ局に移動しなくてもいいじゃない! もうマネージャーも気がきかないったらありゃしない。
 はあ……もう三日も経つのに、こんなことじゃ仕事が手に付かない。今日もNGを十二回も出してしまってディレクターに睨まれるし……
 もう一度会いたいなァ。なんで電話番号くらい聞いておかなかったんだろう。そうすれば電話して……
 ちょっと待って。そうよ、電話番号くらいすぐ調べられるじゃない。宗一郎さんの大学も分かってるんだから、そんなの簡単! うん。善は急げよ。
 待った、待った。電話番号を調べるのはいいとして、電話してどうするの? 
『この間はありがとうございました。今度お茶でもいかが?』
 ダメよ。唐突すぎる。
『おかげさまでドラマがうまく収録できました。お礼にお食事でも』
 なにそれ? 私はテレビ局の人?
『宗一郎さん。あなたを一目見て好きになってしまいました。私を奥さんにして下さい』
 ダメーッ! そんなこと言ったら頭がおかしいと思われる!
 ああ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。こんなとき恋愛経験が少ないのが恨めしいわ。ホントに私は女優なのかしら。なんでこんなに想像力が貧困なんだろう。
 そうだわ。想像力が貧困なら他人に助けてもらいましょう! これから恋愛小説を片っ端から読んで、いい知恵を拝借する。うん、それいいかも。って、そんなの読んでる時間はないわ。どうしよう……
 そうだ! 漫画ならどう? 漫画ならすぐ読めるわ。うん、私って頭いい。よし買いに行くぞ!
 そんなわけで真夜中のコンビニに来たけど、女の子向けの漫画雑誌ってけっこう数があるのね。どれを買ったらいいのか……この、『マーガレット』とか『リボン』とかはダメね。子供向けすぎる。『花とゆめ』もパス。やっぱりレディースコミックかしら。いいや、あるだけ買っていこう。三冊、四冊、五冊……うっ。重い! レジが遠く感じる。
 コンビニの店員さんが私に気づいたみたい。ここはにっこり笑ってなに食わぬ顔、なに食わぬ顔と。きっとこの店員さん、すぐにツイートするわね。浅井祐子が夜中にレディースコミックを買いあさりに来たって。ああどうか、役作りのためとか誤解してくれますように。
 やっと家に帰り着いた。ああ、重かった。腕がちぎれるかと思った。
 さあ、読もう。
 ええと、ふむふむ。あら学校の先生が主人公だわ。廊下で生徒とぶつかって、教科書を落とす。う~ん、ありがち。この生徒と恋に落ちるのね。って言ってるそばから、もうベッドイン? まだ十ページ目なのに。こりゃダメだ。
 はい、つぎ。ああいきなりダメ。不倫ものじゃあねえ……ダメよ奥さん。旦那様が仕事で忙しいからって、酒屋のご用聞きと……あらら、すごい体位ね。
 つぎつぎ。あら、これは割とまとも。仕事一筋の独身係長と取引先のキャリアウーマン。うん、これはいいかも。
 ギャーッ、ダメだ! なんでいきなり縄で縛るの! ロ、ローソクに火なんか点けるんじゃない! まともだと思ったのに!
 うわあ、でもすごい。こんなのコンビニで売っていいの? ひ〜。レディースコミックを選んだのは間違いだった。私ってホントにバカ。やっぱり『マーガレット』を買ってくるんだった。

「どうしたの、パパ?」
「あ?」
「あ? じゃないよ。最近のパパすっごい変」
「そ、そうか? そんなことないだろ」
「あるよ。ドラマの収録があった日からおかしい」
「き、気のせいだよ」
「うろたえてる。怪しい」
「うっ……」
「だいたい浅井さんにサインをもらってきてって頼んであったのに、それも忘れちゃうしさ」
「だから時間がなかったんだ」
「でも話はしたんでしょ。浅井さんと」
「した……」
「そのときもらえば良かったのよ」
「でも収録の前だったし……」
「気の使いすぎだって。娘がファンですって言えば、すぐもらえたのに。あたしマジで楽しみにしてたんだよ」
「ごめん」
「まあいいや。それより早く食べて。食器片づかない」
「ぼくが洗うよ」
「ええ、お願いしたいんですけどね。パパこの三日で何枚お皿割ったか覚えてる?」
「三枚? いや四枚かな?」
「六枚。コップを二個。ウェッジウッドのカップが一個」
「す、すみません……」
「分かったら早く食べて。あたし八時から見たいドラマがあるの」
「う、うん」
「浅井さんのドラマだよ。こないだ収録に来たヤツ。今日からなんだ」
「そ、そうなの? たった三日前でもう出来ちゃったの?」
「パパの大学で収録したのは、ずっと先の回なんでしょ」
「あ、そうか。なるほど」
「ほらはじまっちゃうから」
「あ、うん。ぼくも見るよ」
 ぼくはあわてて夕飯を腹に詰め込んだ。み、見なければ!
「パパがテレビを? 嘘でしょ?」
「いいや、見るぞ。ぜったい見る!」
「わ、分かったから、ちゃんと噛んで食べなさいよ」

 来てしまった。宗一郎さんの大学……もう一度、復習。
 ええと、宗一郎さんが出てきたら、『あら、川島さん。この間はどうも』と声を掛ける。宗一郎さんが、『浅井さん。どうしたんですか、こんなところで』と聞く。『いえ、偶然、近くを通ったんですよ』と答える。『そうですか。奇遇ですね』と宗一郎さんが言う。『ホントにそうですね』私はほほえみながら、『あのォ、今日は寒いですね』とさりげなく言う。『ええ、冷えますね』宗一郎さんはコートの襟を立てる。『あら、風邪を引いたら大変。近くでお茶でもして暖まりませんか?』と誘う。
 完璧だ。徹夜で漫画を八冊も読破した成果。さりげなく宗一郎さんの体を気遣ってるのがミソ。さあ宗一郎さん。いつでも出てらして。わたくし、いつでも準備OKですわよ。オホホ。やだ、口調が白鳥麗子になってしまった。
「浅井さん!」
 女の子の声。あちゃーっ、関係ない子に見つかってしまった……
「浅井さんですよね?」
「ええ。そうですよ」
 私はその女の子ににっこりほほえんだ。高校生ね。なんで高校生が大学にいるの? うう、どうでもいいけど、宗一郎さん早く出てきて……
「わあ、感激! あたし浅井さんのファンなんです。昨日のドラマ見ました!」
「どうもありがとう」
「パパも面白いって言ってました」
「うれしいわ。親子で見ていただいたのね」
「はい。あのサインを頂けませんか?」
「ええ、いいわよ」
「この間パパにもらってきてって頼んだのに忘れてたんですよ。よかたァ。まさかご本人にお会いできるなんて思ってもみなかったです」
「あら……いつのことだったかしら?」
「あっ、ごめんなさい。自己紹介がまだでした。あたし川島可憐っていいます。川島宗一郎の娘です」
「な、な、な、なんですって!」
「あの、どうかなさいました?」
「い、い、いえ。なんでもないですわ」
 ヤバい。口調がまだ白鳥麗子。いえ、そんなことはどうでもよくて、この子が宗一郎さんの娘? すいぶん大きいじゃない。
「あなた……ええと可憐さんでしたっけ?」
「はい」
「可憐さんって、おいくつ?」
「十六です」
「お父さんは確か三十八よね」
「ええ。パパ学生結婚だったんです」
「ああ、そうなの。それで」
 そうだったのか。また宗一郎さんのこと詳しくなっちゃった。なんかうれしい。って、ちょっと待って。この子が宗一郎さんの娘ってことは、つまり無茶苦茶ラッキーってことじゃない?
「あ、あの、可憐さん」
「はい」
「今日は寒いわね」
「そうですか? 小春日和ですよ」
 あれ?
「そ、そうね。で、でも風邪を引いたら大変よ。近くでお茶でもして暖まらない?」
「あたしアイスティーがいいな」
 うっ……け、計画が……
「と、とにかく! アイスティーでもチョコレートパフェでもなんでもいいから、お茶しましょう! 私、可憐さんとお話ししたいわ!」
「はい、よろこんで」

 可憐さんはアイスティーを飲みながらホットケーキを食べて、そのあとチョコレートパフェを注文した。若いってすごい……
「パパったら、ひどいんですよ」
 可憐さんはパフェを食べながら言った。
「あら、なんで?」
「今日うちの学校、開校記念日で休みなんです。よし映画でも見に行くぞ。とか思ったとたん、見計らったように電話してきてお使いを頼むんです」
「お使い?」
「ええ。パパ今日は学会に行ってるんです。そしたら他の先生の資料まで持って行っちゃったらしくて、あたし学会までそれを取りに行って大学に返しに来たんです。ホント、いい迷惑」
「そうだったの」
「そうなんですよォ。ひどいでしょ」
「なんだ、宗一郎さんいなかったのか……」
「え?」
「あ、いえ。川島さんもそんなことがあるのね」
「けっこう、おっちょこちょいですよ。お皿なんかよく割るし」
「ぷっ、ホントに?」
 私は思わず吹き出してしまった。宗一郎さんの意外な一面。なんだが私と似てる。
「そう言えば、なんで浅井さん大学の前にいたんですか?」
「え? ああ、その近くを通りがかったのよ」
「へえ、そうなんだ。パパのお使いも無駄じゃなかったな。こうして浅井さんと会えたし」
「そうね。あたしも無駄じゃなかった」
「なにがですか?」
「だって宗一郎さんの娘さんと会えたんだもの」
「宗一郎さん?」
「あ……」
 しまった! ついポロッと……
「パパの名前、知ってたんですか?」
「え、ええ。あの、その、お、お名刺を頂いたから、あの……」
「なんか声がうわずってますけど」
「き、気のせいよ」
「パパとなにかあったんですか?」
「い、いいえ、なにもないわ」
「ふうん……でもなんか変なのよね。収録のあった日からパパもボーッとしてるし。滅多にテレビなんか見ないのに、浅井さんのドラマを食い入るように見てるし」
「それホント!」
「ホントですよ。ねえパパになにか言ったんですか?」
「い、言ってない。それよりなんであたしのドラマを見てくれているの? ねえ、なんで?」
「知りません。あたしが聞きたいくらいです」
「そ、それならお父さんに理由を聞いてもらえないかしら! ね、ね、お願い!」
「いいけど……どうしてそんなに気にするんですか?」
「ど、どうしてって……その、それは、あの……そう! 女優として当然でしょ?」
「まあ……それはそうかもしれないけど」
「ね、だから理由を聞いて欲しいの。それでもしよければ私の印象とかも聞いてもらえるとうれしいな」
「浅井さんの印象? どうしてそんなこと聞くの?」
「それは、その、あの、やっぱり女優としては気になることで……」
「また声がうわずってますよ」
「うっ……」
「浅井さん、本当に大学の前を通りがかっただけなんですか?」
「ど、どうして?」
「パパに会いに来たとか?」
 ひぇ~ もうバレてしまった!
「まさか図星ですか?」
 ああ、ダメだわ。私って嘘がつけないのよね。
「あの……じつは……そうなの」
「う、うっそー! 信じらんない! なんで、なんで? どうして、どうして?」
「か、可憐さん。声が大きい……」
「あっ、ごめんなさい。でもなんで?」
「だって……会いたかったんだもん」
「だから、なんで?」
 ううう。どうしよう……このさい言っちゃう?
「宗一郎さんが、その……ああ、ダメ! やっぱり言えない!」
「やだあ、そんな風に言われたらもっと聞きたくなる! ねえ誰にも言わないから教えて下さい。ね、いいでしょ?」
「ホントに誰にも言わない?」
「うん!」
「ホントにホント?」
「約束します!」
「あの……ひ、一目惚れなのよ。私、宗一郎さんのことが好きになってしまったの」
 ああ、言っちゃった。とうとう……やっぱり、可憐さんが絶句してるわ。言うんじゃなかった……
「あ、浅井さん」
「はい……」
「気は確か?」
「うん」
「パパのどこがいいの?」
「だって、かっこいいんだもの」
「ま、まあ、ハンサムの素質はありますけど……パパにその話しました?」
「ううん、してない。まずはお友達から始めようかな。なんて」
「お、お友達って……いまどき中学生だってそんなこと言いませんけど」
「そうなの?」
「そうですよ。学校で男の子とキスする子だっていますよ」
「す、進んでるのね……私ってバカかしら?」
「ううん。そんなことありません。とっても可愛いと思います」
「あ、ありがと……」
 高校生に可愛いとか言われてしまった。私ってやっぱりバカなんだ。
「そうか。浅井さんってパパの好みかも」
「え!」
「うん、そうよ。それですべて分かった」
「な、なにが?」
「パパがボーッとしてた理由。パパも浅井さんのこと好きなんだ」
「う、うっそー」
 宗一郎さんが私のことを好き? うそうそ、そんなことあるわけないわ。でももし、もしもそうなら……ああ、ダメ。そう思っただけで、頭がクラクラしちゃう。
「浅井さん? 大丈夫?」
「へ?」
「なんか遠くを見てましたよ」
「や、やだ私ったら……ね、ねえ、それよりホントに宗一郎さんが私のことを好きだと思う?」
「たぶん。いいえ、それ以外考えられない。浅井さんのドラマを見てたのだってそうですよ」
「ああ、信じられない……」
「それはあたしのセリフですけど……まあいいや。それでパパが浅井さんを好きだったらどうします? パパとつき合う?」
「うん! おつき合いしたい!」
 私は思わず答えてしまった。とたん可憐さんの顔が真面目になる。私なにかまずいこと言ったかしら……
「だったら一つ約束して下さい」
 可憐さんは私を見つめた。
「は、はい」
「浅井さんを信じてないわけじゃないけど、遊びでパパとつき合ったりしないで欲しいんです」
 ああ、そうだ。可憐さんは宗一郎さんの娘なんだ。私ったら一人で舞い上がっていた。彼女の気持ちも考えず。
「パパって本当に真面目なんです。再婚もしないであたしを一人で育ててくれました。あたしパパが悲しむ顔は見たくありません」
「可憐さん。私遊びで男の人とつき合ったことなんてない。それにこんな気持ちになったのは生まれて初めてなの」
「よかった。それを聞いて安心しました。ごめんなさい。生意気なこと言っちゃって」
「ううん。私こそごめんなさい。自分ばかり舞い上がっちゃって」
「あたし、うれしいです。浅井さんみたいな素敵な人がパパを好きになってくれて。パパには幸せになってもらいたいもの」
 私は胸が熱くなった。やっぱり宗一郎さんの娘だわ。ホントにいい子なのね。
「可憐さん」
 私は可憐さんの手を握った。
「私あなたを失望させることはしない。可憐さんとならうまくやっていけると思うの」
「はい。あたしもそう思います。あたしなんでも協力しますよ」
「あ、ありがとう!」
「ねえ、浅井さん。もう一つお願いがあるんですけど」
「なあに。なんでも言って」
「フルーツパフェも注文していい?」

「ただいま」
 ぼくは家に戻った。今日はポカをやってしまった。女性(しかも芸能人)のことで頭がいっぱいだったなんて誰にも言えない。教育者失格だな。その前に父親失格か? そう言えば可憐の怒りが収まっているといいのだが。お使いを頼んだとき怒っていたからなァ。
「おかえりなさい」
 可憐がわざわざ玄関に出てきた。こんなこと滅多にない。ああ悪い予感がする。
「パパ、疲れたでしょ。お夕飯できてるよ。それともお風呂が先?」
「え? あの怒ってない?」
「なにが?」
「いや、昼間お使いを頼んだときは……」
「別に怒ってないよ」
「それはよかった」
「でも、そう何度もパパのポカにつき合ってはいられませんけどね」
「ごめん。以後気をつけます」
「ならよろしい」
 可憐はにっこり笑った。よかった。機嫌が直ってる。
 ぼくは可憐と一緒に夕食を食べた。可憐は終始にこやかで、どうやら機嫌が直ったのは、なにか良いことがあったらしかった。なにがあったか分かったのは、食後のお茶を飲んでいるときだった。
「ねえパパ。いいもの見せてあげようか」
 そらきた。やっぱりなにかあったんだ。
「うん。見たいね」
「ジャーン! これなんだ?」
 可憐はなにやら判読不能の文字が書かれた色紙を出した。
「なんだいそれ」
「見て分からない?」
「象形文字みたいだな」
「サインだよ」
「誰の?」
「浅井祐子」
「ふうん。えっ! な、なんだって!」
「今日ね。大学の前で会ったの。ばったり」
「大学ってどこの?」
「パパの大学に決まってるじゃない」
「なんでそんなところに浅井さんがいるんだ?」
「偶然通りがかったんだって」
「へえ……そ、そりゃ、よかったね。それで念願のサインが手には入ったわけだ」
「うん。しかもそれだけじゃないよ。一緒に喫茶店に行った」
「へえ……そ、そりゃ、すごい。ファン思いの人だね」
「違うのよ。パパの娘だって言ったら連れていってくれたの」
「なんでぼくの娘だと喫茶店に連れていってくれるんだ? どうして?」
「さあ? とにかくアイスティーとホットケーキとチョコレートパフェとフルーツパフェをご馳走になったわ」
「そんなに? それでさっき夕飯も食べたの? いや、そうじゃなくて、おまえ全部おごってもらったのか?」
「うん。でも浅井さんって変なんだよ」
「どこが?」
「喫茶店でね、パパのことばっかり聞くの。どんな女性が好みなのかとか、いまつき合ってる恋人はいるのかとか」
「へ、へえ……不思議だね」
「ね、変でしょ。しかもパパの話をしてるとき、瞳が輝いてるんだよ。頬なんかポッとか赤く染めちゃってさ」
「う、嘘だろ。大人をからかってはいけない」
「からかってなんかいないよォ。ホントのことだもん。きっと浅井さん、パパのこと好きなんだよ。大学の前を通りがかったなんて言うのも、案外パパに会いたかったからだったりしてね」
「まさか。そんなことあり得ない」
「なんでよ?」
「だって相手は女優さんだよ。それが冴えない学者を好きになるわけがない。しかも、一度しか会ったことがないのに」
「じゃあ仮定の話をしましょう。もしも浅井さんがパパを好きだとしたらどうする?」
「仮定の話には答えられないよ」
「仮説を立てるのがパパの仕事じゃない。ねえ答えて。浅井さんに好かれたらうれしい?」
「そりゃ悪い気はしないさ」
「浅井さんとつき合う?」
「だから大人をからかってはいけません」
「ふうん。じゃいいこと教えてあげようかと思ったけどやめた」
「な、なに?」
「知りたい?」
「うん。知りたい」
「じつは今度の日曜日、浅井さんと会う約束したんだ。ぜひ、ぜひ、お父さんもご一緒にって言ってたよ」
「あ、会ってどうするんだ?」
「別に。ただお話しするだけでもいいじゃない。それともパパ、日曜日予定ある?」
「ない! なんにもない!」
「じゃ決まり」
 可憐はニッコリ笑った。なにか裏があるときの顔だァ〜。

 日曜日。今日はパパにとって、とっても大切な日になりそうな予感がする。いいえ大切な日にしなきゃいけないよね。
 パパは相変わらず浅井さんのことが好きだとは白状しないけど、前の日に床屋さんに行ったし、滅多につけないオーデコロンなんかつけてるし、相当、意識しているのは間違いない。いい傾向だ。
 浅井さんは浅井さんでもう大変。日曜日パパも行くって電話したら、その喜びようったらなかった。あんまり喜ぶから、あたしもうれしくなっちゃった。
 そのあとパパの好みそうな洋服を買いに行くことになって、あたしもお供した。自慢じゃないけど、パパのこと一番知ってるのはあたしだもん。まあアドバイス料として、あたしも一着買ってもらったから得したけどね。そうそう靴とコートも買ってもらっちゃった。浅井さん太っ腹。いえホントに太ってるわけじゃないよ。

「パパちょっと早すぎるよ。約束の時間まで二十分もあるよ」
「いや、待たせるより、待った方がいい」
「まあね」
 嘘ばっかり。ホントはいても立ってもいられなかったくせに。あたしとパパは待ち合わせの喫茶店に入った。なんと浅井さんはすでに来ていた。浅井さんもパパと同じ心理状態だったみたい。二人ともちょっと変。
「わあ浅井さん。早いですね」
 とあたし。
「え、ええ。おはよう可憐さん」
 浅井さんはほほえんだ。うんうん。あたしのアドバイス通り、薄化粧で来たのね。バッチリ、パパの好みだよ。さすが女優。薄化粧でもきれい。でもね浅井さん。緊張してるのが口元で分かるよ。ひきつってるもん。
「パパ、なにしてんの」
 あたしはパパをつついた。だってボケッと浅井さんに見とれたままなんだもの。
「ど、どうも。おはようございます。浅井さん」
「お、おはようございます。川島さん」
 二人は緊張しながら挨拶した。まったくウブというか、シャイというか。困った大人たちだこと。
「パパ座りなよ」
「うん」
 二人はじっと黙ったままうつむいていた。そんなに緊張しなくてもいいと思わない? しょうがないなあ。きっかけを作ってあげるか。
「パパこの間のお礼を言ってよ」
「ああ、そうだった。ええとこの間は、娘がご馳走になったそうで申し訳ありません」
「とんでもない」
「いろいろ注文したそうで。いやはや、まったく遠慮がないというか、困った子です」
「そんなことありません。可憐さんとってもいい子ですよ。さすが川島さんの娘さんですね」
「いや、お恥ずかしい」
 それっきりまた沈黙。二人ともそわそわお茶を飲んでるだけ。ああもう! 最近の大人は世話が焼ける。
「ねえ天気もいいしさ。みんなでどこかに行こうよ。いいでしょ、浅井さん?」
「え、ええ。そうね」
「パパもいいでしょ?」
「そうだね。でもどこへ行くんだ可憐?」
「知らないわよ。二人で決めて」
「そう言われても……そうだ。可憐、遊園地にでも行くか?」
 ちょ、ちょっと止めてよ、小学生じゃあるまいし。
「わあ、いいですね、遊園地」
 浅井さんがうれしそうに言った。
「ねえ、可憐さん。行きましょ」
 マジ? 二人とも精神年齢低すぎない?
「う、うん、まあ、いいよ」
 あたしはひきつりながら答えた。ま、いっか。今日は二人につき合ってあげよう。

 で、遊園地。いやァ、なんだかんだ言ってウキウキして来るな。考えてみればパパと遊園地に来たことなんか数えるぐらいしかないもんね。
「パパ! ジェットコースター乗ろうよ!」
「うん。浅井さんはどうします?」
「浅井さん一緒に乗ろうよ。いいでしょ?」
「ええ。いいわよ」
 浅井さんは笑いながら答えた。へえ、こういう顔はやっぱり大人だな。
 あたしたちはジェットコースター乗り場に行った。しめしめ。三人掛けだ。
「パパ、真ん中ね」
「か、可憐、おまえ真ん中に座れよ」
「ダメよ。パパが真ん中じゃなきゃ、女の子が二人つかまれないじゃない」
「女の子?」
「あたしと浅井さんだよ。ねえ浅井さん。パパが真ん中がいいよね」
「え、ええ。可憐さんがそう言うなら」
 あー、もう。いつまでもあたしをだしにしてちゃダメだよ。
 ジェットコースターが動き出す。
「キャーッ!」
 あたしはわざとパパにつかまった。ほら浅井さんチャンスよ! パパに思いっきりしがみついて! って目をつぶってうつむいてるんじゃない! もう!
 ううむ。ジェットコースターは失敗。となれば定番のお化け屋敷だ。
「パパ。お化け屋敷入ろうよ」
「うん。浅井さんは……」
「あ、私も入ります」
 よしよし。ゴンドラに乗るタイプだ。
「はい。パパ真ん中ね」
「うん」
 ゴンドラが動き出す。
「キャーッ!」
 あたしはわざと……わざとじゃない! ホントに恐いよ!
「キャーッ!」
 これはあたしの悲鳴じゃないよ。浅井さんの声。おっと! 浅井さんパパにしがみついてる。いい感じ。パパどんな顔してるかな? ってパパの顔なんか見てる場合じゃない! ひーっ、恐い! あたしもパパにしがみついた。
「あー、恐かったけど、面白かった」
 とあたし。
「悲鳴がステレオで聞こえたぞ」
 とパパ。
「ご、ごめんなさい! 恐くてつい……」
 浅井さんがあわてて言った。
「と、とんでもない。浅井さんが謝ることなんかないですよ!」
「そうよ、そうよ。浅井さんって可愛いよね」
「おまえなんて失礼なこと言うんだ」
「アハハ、ごめん。でもそう思わない?」
「いい大人に、可愛いはないだろ」
「そうかなァ。浅井さん可愛いって言われたら嫌ですか?」
「いいえ。そんなことない。うれしいですよ」
「ほら。ねえ、パパ。浅井さんって可愛いよね」
「う、うん。可愛い」
 パパは顔を真っ赤にしながら言った。浅井さんも頬を染めてる。あたしに言わせれば、二人とも可愛い。
 さて、つぎはなにに乗ろうかな。
「ねえ、可憐さん。観覧車に乗りたくない?」
 と浅井さん。
 はいはい。乗りたいのね。
「うん乗りたい。パパも乗るよね?」
「ああ」
 あたしたちは観覧車に乗った。
「ワオ! 高い!」
 とあたし。
「可憐さんったら子供みたい」
 浅井さんはあたしを見てにっこり笑った。そうかなァ。浅井さんの方が子供っぽいと思うけど。あ、でも、これは使える。
「えへへ」
 とあたし。
「だって、パパと遊園地に来たことなんかほとんどないんだもん」
「そうだね」
 パパが申し訳なさそうに言った。
「可憐には寂しい思いをさせてきたかな」
「ううん、そんなことないよ。でもやっぱりうれしいな。こうして遊んでると」
「可憐」
 うっ、パパごめんね。別に困らせたいわけじゃないよ。作戦なの。我慢してね。ほら、浅井さんもパパのこと潤んだ目で見てるよ。
「ねえ、浅井さん」
 とあたし。
「あたしたちって、ホントの親子に見えないかな」
「もちろん見えるわよ。だって本当の親子ですもの」
「違う違う。あたしたち三人だよ。浅井さんがあたしのママ。見えるよね。パパ」
「こ、こら。バカなこと言うもんじゃない」
 あー、もう素直じゃないなあ。もう一押ししてみるか。
「あたしね。ホントはこうして親子で遊びに行くのが夢だったんだ。パパとママが別れっちゃったのは仕方ないけど。ちょっと寂しかった」
「可憐……ごめんよ」
「ううん。パパのせいじゃないよ。でもさ。またこうして三人で遊びたいよね。浅井さんは迷惑かな?」
「いいえ。迷惑なわけないじゃない。私もとっとも楽しい」
「じゃあまた遊んでくれる?」
「もちろんよ。私なんかでよければいつでも」
「ダメ。浅井さんがいいの。浅井さんじゃなきゃヤダ」
 ひーっ、我ながら臭いセリフ。言ってて恥ずかしいよォ。でももう一押し!
「あたし……」
 あたしは外を見てつぶやいた。
「浅井さんみたいなママが欲しいな」
「可憐。そんなこと言ったら浅井さんが困るだろ」
「い、いいえ。とんでもない。私あの……」
 パパと浅井さんは見つめ合った。いい感じ。行け行け!
 と思ったとたん。ゴンドラが一周してしまった。係員が無情にもドアを開ける。ああ、いいところだったのにぃ~。
 ここでお昼になった。あたしたちはお弁当を買って芝生の上で食べることにした。パパはレストランに入ろうって言ったけど、あたしが芝生の上で食べたいってせがんだの。だってホントにそうしたかったんだもん。ううむ。あたしも幼児化してきたかな?
「なんだかこういうのも素敵ですね」
 浅井さんがお弁当を食べながら言った。
「そうですね」
 とパパ。
 あたしは二人を見つめた。ふうん。こうして見るとパパもけっこういい男だな。浅井さんと並んで座っていても、ぜんぜん違和感ないよ。
 ふと気がつくと、周りの人たちがあたしたちをちらちらと見てる。きっと浅井さんに気がついたんだね。違うか。浅井祐子に良く似た人だなと思ってるだけかも。まさか本物の浅井祐子が芝生の上で親子ごっこしてるとは思えないもんね。
 あたしは大声で叫びたくなった。この人は正真正銘、浅井祐子さんですよ。隣にいるのがあたしのパパ。二人は好き合ってるのよ。どう? うらやましいでしょ! ってね。
「可憐。どうかした?」
 パパがあたしの顔をのぞき込んだ。
「えっ、なんでもない」
 あたしはあわててお弁当を食べた。
「あら可憐さん。ごはんがついてるわよ」
「え? どこに?」
 浅井さんは答える代わりに、あたしの口元に付いたご飯粒をつまむと、それをペロッと食べた。やだ、なんか、ホントのママみたい……
「どうしたの?」
 と浅井さん。
「う、ううん。なんでもない」
 あたしは幸せな気分になってきた。困ったなァ。ん? 別に困ることなんかないか。
「ねえ、浅井さん。あたし思うんだけどさ」
「なに? 可憐さん」
「そう、それ。可憐さんって呼び方。『さん』なんてつけなくてもいいよ。可憐って呼んで欲しいな」
「そうね」
 浅井さんはクスッと笑った。
「じゃあ、可憐ちゃんかな。どう?」
「うん、いいよ。あっ浅井さん、その卵焼き食べないの?」
「ええ、可憐ちゃん食べていいわよ」
「わーい。いただきま~す」
 あたしは浅井さんのお弁当から卵焼きをつまんだ。
「まったく」
 パパは笑いながら言った。
「食べることには見境ないな。誰に似たんだか」
 浅井さんも笑った。もちろんあたしも。って、あたしバカにされたんじゃないかしら?

 それからあたしは、二人をくっつける努力をやめた。別に諦めた訳じゃないよ。だって、不自然に振る舞うより、自然がいいよね、やっぱり。
 でも白状すると、遊びの方に夢中になってしまったのがホント。メリーゴーランドに乗って(パパは外で見ていた)。ティーカップにも乗った(これは三人で)。う~ん、今日はいい日だな。
 そんなこんなで夕方になった。あたしたちはさすがに遊び疲れて、広場のベンチで休むことにした。
 夕日がきれい。気がつけば家族連れが減ってカップル率が高くなったみたい。
 カップル? いっけない。あたしったら大事なこと忘れてた。
「ねえ、パパ。あたしおみやげを見てくる」
「一緒に行こうか」
「ううん。一人で行ってくる。二人は休んでいていいよ」
 あたしはちらりと浅井さんを見た。
「そうね。しばらく戻ってこないと思うな。三十分ぐらい。じゃあね」
 あたしは二人を残しておみやげ屋に走った。というのは嘘で。じつは見えないところまで走って、そのあと、そっと二人の後ろに戻ってきたの。だって気になるじゃない。
「川島さん」
 と浅井さん。
「はい」
「夕日がきれいですね」
「そうですね」
「可憐ちゃんって、本当にいい子ですね」
「ハハ。なんだか生意気なだけの娘ですけどね」
 悪かったわね。生意気で。
「そんなことないです。とっても優しい子だと思います」
「ありがとう」
「私、可憐ちゃんがちょっとうらやましいな」
「は? なんでですか?」
「だって川島さんと……」
「ぼくと?」
 おお、いい感じ。浅井さんがんばれ!
「いえ、なんでもないんです」
 がっくり。
「浅井さん」
「川島さん」
 二人が同時に言った。なんか定番のボケね
「あ、川島さんからどうぞ」
「いえ、浅井さんからどうぞ」
 もうパパったら。
「川島さんって、モテるんじゃありませんか?」
「そ、そんなことありませんよ! ぼくみたいな子持ちはダメですよ」
「いいえ、そんなことありません。私はぜんぜん気にしません!」
「え?」
「あっ。いえ」
「あの、浅井さん。ぼくは……」
 パパ! がんばって! もう一息よ!
「ぼくは、あ、あなたのことが、あの……いえ、なんでもないんです。すいません」
 あああ、じれったい!
「川島さん。お願いです。最後までおっしゃって」
「いや、きっと笑われます」
「笑いません」
「でも浅井さんは女優さんだし」
「それをおっしゃるなら、川島さんだって博士ですもの。私なんか」
「ぼ、ぼくは、そんな大した男じゃありません」
「私だって大した女じゃありません」
 なに言ってるんだろ、この人たちは。
「あの浅井さん」
「祐子と呼んで下さい」
 お! いいぞ、浅井さん。これで告白しなきゃ男じゃないわよ、パパ!
「ゆ、祐子さん」
「はい」
「ぼ、ぼくは、あたなのことが好きです!」
 や、たったー!
「ああ、うれしい。私も川島さんが好きです!」
「宗一郎と呼んで下さい」
「はい。宗一郎さん」
「祐子さん。こんな子持ちで良かったら、ぼくとつき合っていただけませんか」
「はい! よろこんで!」
 二人は静かになった。ううむ。キスでもしてるな。覗いてみたいけど、パパがだれかとキスしてるところなんて見たくないかも。いろんな意味で。ああ、でもよかった。長い一日だったなァ。
 あたしはふたりの後ろから離れた。こんどこそ本当にお土産屋さんに向かう。友だちにチョコでも買っていこう。
 って思ったときだった。
「どうやら、うまくいったみたいね」
 あたしの前に女の人が現れた。ポワンと。
「あら、モーナ。あんたいたの?」
「観察してたんだよ。どうだい、あたしの力は偉大だろ」
「冗談。あたしがどれだけ苦労したと思ってるの。半分は自分で自分の願いを叶えたようなものね」
「ハハ! 笑わせる。あたしの力を見くびっちゃいけないよ。あんたがなんにもしなくたって、二人はああなったさ」
「まあ、いいわ。結果的に願いは叶ったんだから」
「ふむ。それにしてもあんた、口が悪い割に親想いだね。独身の父親に再婚相手を捜してくれなんてさ」
「誰でもいいってわけじゃないよ。浅井さんが良かったの。だからモーナに頼んだんだからね」
「それはあんたが浅井祐子のファンだからだろ?」
「バカね。ホントにそう思ってたの?」
「違うのかい?」
「あたしの本当の願いは芸能界にデビューすること。母親が女優なら簡単じゃない」
「あ、あんた、それが目的で?」
「勘違いしないで。パパに再婚して欲しかったのもうそじゃないよ。つまり二つの願いを同時に叶えたってわけ。願い事は一つしか叶えてくれないんでしょ?」
「まいった。負けたよ、あんたにゃ」
「どういたしまして。これでも学者の娘だから。頭は使わなきゃね」
「まあいいさ。とにかくあたしの仕事は終わったよ。じゃあね、たぶん二度と会わないね」
「それはどうかしら? まだパパと新しいママの願い事が残ってる」
「それはあんたの分じゃないよ。あの二人の分さ」
「パパも新しいママも、あたしのお願いなら聞いてくれると思うな。だからあたしの代わりに、モーナにお願いしてもらえばいいのよね」
「あきれた。大した子だよ」
「ありがとう。もう帰っていいよ。また会いましょうね」
「くわばら、くわばら」
 モーナは消えた。

 終わり。

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