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共に生きる、ということ。

名古屋市栄の久屋大通公園が生まれ変わります。

広い芝生を囲むようにカフェやショップが並んで、
再び栄に人と活気を取り戻そうという都市計画です。

以前は、たくさんの木が生茂る森、でしたから、
その木を伐採して、
芝生にしよう。カフェを作ろう。という計画には
反対する人もたくさんいました。

工事がはじまり、公園は柵で囲われ、
どんどんと木が倒され、
うっそうとした深緑に覆われていた公園が
むき出しになると、

「なんだ、これは!ハゲ山じゃないか!」
「ここは森だったのに、栄の緑が失われている」
「カフェを作るなんて、人のエゴだ!」などと、
SNSに投稿する人もいました。

しかし、
長年、ここに住む私たちは知っていました。

森は生きていない。

多くの人が、都会の緑だと思っていた森は、
森として健やかに生きていなかったんです。


私がここに住み始めた2000年ごろ。
森の中には、ホームレスが住む小屋が立ち並び、
大きなドブネズミが走り回るのを何度も見ました。
街灯が少なく、夜は真っ暗で、

住人の私たちでも
森は、近付き難い場所でした。

2005年の愛知万博を機に、
若宮大通公園にホームレスの人たちが仮住まいする施設ができて、
久屋大通公園も整備され
ホームレスの小屋はすべて撤去されました。
小屋を建てにくくしたり、ネズミが巣を作りにくくするために、
森の中の土が入れ替えられたと、聞いています。

こうして公的に、森は整備されましたが、
森に、人は戻りませんでした。

木が生い茂っていて、
森の中は昼間でも暗く、寂しく、
ベンチには、アルコールの缶を持った人が横になっているので
すこし物騒な気がしましたし、

木で視界が遮られているので
森の外からはまったく目が届きません。

当時、小学生だった息子たちには
「森で遊んではだめよ」と教えていました。

こんな森でしたが、

自宅のベランダから
公園の緑やテレビ塔を眺めることは
私の、唯一の贅沢でした。

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そうです。

「眺めているだけなら美しい」

久屋大通公園の森は、
遠くから見れば美しいけれど、
近くから見ると寂しく怖い。

そんな存在だったんです。

都市計画に憤慨し、SNS投稿した人たちも、
この地域に住む人たちではありませんでした。



都市計画が進み始めると、
私たち住民は、市の職員から何度も計画について説明を受けます。

そこで私は、
人が近づかないだけでなく、
木々も健やかでなかったことを知りました。


久屋大通公園の木は、
もともとは横に大きく伸び茂る種類の木です。

しかし、森の中で木々同士が干渉しあって
横に枝を広げることができなくなり、
ヒョロヒョロと縦に伸び、
ほとんどの木が、
道路側だけ伸びて、森側は葉もつけない、というような
片側だけが茂るという不完全な成長をしていたんです。


伐採される様子を見て、
ハゲ山じゃないか!と言った人に教えたいです。
カフェを作るなんて人のエゴだ!と言った人に伝えたいです。

森の木は泣いていました。
人は森を避けていました。



新しくなった公園に
森の木がたくさん残っています。

それらを見上げてください。

まだ不格好ですが、
陽の当たらなかった片側が
生き生きと枝を広げようとしています。

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共に生きる、ということは、
互いを知る、ということと同等。

知らずに言葉にすることがどれだけ愚かかを
しっかりと心にとどめて、

この街をずっと見てきた木々たちと
新しい共存の時代を生きていけたらいいな。

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