見出し画像

Grandpa's cloud(6)

雨の日が嫌いになったのは、あの人が雲になってからだ。
三十三年前、冬、広島。

僕が初めて「死」に直面したその日、空には雲が浮かんでいた。

葬儀から数日して、僕ら家族は蒲刈を後にした。
いつものようにフェリーに乗り、小さくなっていく蒲刈を見ていた。

気づいたのは僕だった。
空に浮かぶ雲。
青空にぽっかりと浮かぶ雲を指差し、僕は言った。

「ねぇねぇ!あそこにじぃちゃんがおるよ!!」

僕の指差す先を見て、母親は声をあげて泣いた。
父親は、信じられないといった面持ちで雲を見ていた。
兄ちゃんもやはり、泣きながら雲を見ていた。

僕の指差す先の雲。
その形は、じぃちゃんの寝顔そのものだった。
あの日、病室で見たじぃちゃんの寝顔。
安らかに眠るその顔が、瀬戸内海の上に浮かんでいた。
僕は、じぃちゃんは雲になったんだと、はっきりと感じた。


僕が雲を好きな理由は、そこにじぃちゃんがいるから。
曇りの日にはじぃちゃんに会えるから。
雨が降るのは、じぃちゃんが泣いているから。
雨が嫌いになった理由は、じぃちゃんが泣いているから。


あの雲を見てから一ヶ月。
じぃちゃんの後を追うように、昭和という時代も終わりを告げた。

「昭和天皇崩御」のニュースが流れた千九百八十九年一月七日。
ばぁちゃんは遺品整理もままならない暗い部屋で一人、テレビの前に座っていた。

壊れかけたテレビ。
ブラウン管テレビの画面上下が黒くなり、ほとんど真ん中しか見えないテレビの前に正座し、じっと画面を見つめ、ときおり傍らのインスタントカメラで画面を映していた。

あのときばぁちゃんは何を考えていたのだろう。
何が見えていて、何を思っていたのだろう。

後日現像された写真は、どれもピンぼけしていて、それはまるでばぁちゃんが泣いているようだった。

こうして昭和の歴史、じぃちゃんの歴史はほぼ同時に幕を下ろした。


あれから三十三年。
じぃちゃんが知らない年号が二つになった今でも、僕は空を見上げるときにはじぃちゃんの雲を探している。


もうこの世にはいないじぃちゃんを思いながら、僕は今日も空を見上げるんだ。

優しい声と、その笑顔を思い出しながら。

この記事が参加している募集

#雨の日をたのしく

16,730件

いただいたサポートは楽器関係、創作活動に使います。決してアルコールには使いません。でもアルコールが音楽や文章に必要と判断される場合はその一滴を力に変えます。よろしくお願いします。