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言葉が伝わらない?

こんにちは、本多です。お寺の住職、大学での教鞭、それからテラエナジーの創業メンバーとして取締役をつとめています。僕は小学校のとき、アメリカに住んでました。帰国子女、つまりリターニーでもあります。仏教×電気×世界。毎日考えることでいっぱいです。noteでは、日常で感じたことや考えたことをできるだけ素直に言葉化したいと思います。ゆっくりしたときに読んでもらえたらうれしいです。

ビジネス会話の背景をたどる

今回は理屈っぽいことを書こうと思う。

テラエナジーを始めて、普段は会うことのない起業家や経営者とお話しする機会が圧倒的に増えた。相手はこちらを僧侶として見てられるので、ビジネスの話から脱線して、仏教の話に及ぶこともしばしばである。なかには、答え合わせをするかのように、経営哲学と仏教思想の親和性を話して下さる方もいる。そうした話は大変勉強になる。

僧侶としてビジネスの現場に足を踏み入れたわけだが、未だ個人的に苦労していることがある。それは言葉の問題だ。お互い日本語で話をしているのに、伝わる感覚が薄いのだ。

お寺での会話と、ビジネスでの会話は違う。用いる言葉が違うというよりは、言葉の背景となるプラットフォームが異なる。背景が違えば、言葉の景色が違ってくる。僧侶がビジネスの現場に足を踏み入れると、時に会話の意図がキャッチできないことがある。

ビジネスの現場では、話が進むと条件や契約についての言葉が飛び交う。「〇〇をするから、△△をしてほしい」「△△を条件に□□の開示を求める」といった具合である。言葉の背景にあるのは、お互いの立場を明確にし、対立させたうえで、お互いが何を「して」、何を「されるか」を細かく規定しあうということだ。

こうした発想のうえに具体的な戦略が練られ、新しいビジネスが誕生する。ただ、新しいビジネスが生まれるということは、既存のビジネスの後退を意味する。経済をめぐる戦(いくさ)の渦中に自分たちがいることに、改めて身の引き締まる思いがする。

一方、お寺での会話は、相手/自己という対立軸があまり表れてこない。会話がすすんだところで、話の出だしに戻るようなこともしょっちゅうで、条件や契約といった観念がまるで姿を見せない。会話は時に「漫才か?」と勘違いされるほど、堂々巡りだったりもする。

それでも決断や決定を下さないといけない場面がある。ところが決断や決定は、過去の事例に照らし合わせてなされることが多い。決断や決定は、単なる選択としておこなわれるわけだから、個人の「思い」を秤(はかり)に掛ける必要がない。したがってお互いの心理的なダメージは少なく、「そういうものか」と頷くことができる。これだからお寺社会は「古くさい」とも「成長しない」とも「人情深い」とも言われる。

ビジネスとお寺、言葉の背景に違いがあることが見えてきた。では、この背景にある違いとは、具体的にどういうものだろう。そこのところを考えてみたい。

能動態と受動態

僕は大学で基礎英語の講義も担当している。英語を教える上で、以前から気になっていることがあった。それは、能動態(のうどうたい)と受動態(じゅどうたい)という2つの態(たい)しか教えない、ということだ。

たとえば、Tom broke the window.(「トムが窓を壊した」)は能動態。受動態に換えると、The window was broken by Tom.(「窓はトムによって壊された」)となる。英語能力が上達すると受動態の表現が多くなる。気になるのは、どの英語の教科書にも能動態と受動態の対立は紹介されていても、それ以外の態が登場しないということだ。つまり、英語は能動態と受動態によって支えられていると教えるのだ。

「態(voice)は2つだけかな?」と疑問に思い、専門書を読むと、能動態と受動態以外にもさまざまな態があることがわかる。可能態、許容態、原因態、中間態、反射態・・・ 英語においても態は2つだけではない。しかし、繰り返しになるが、教えるのは能動態と受動態だけである。

さらには、能動態と受動態の対立は近年、あらゆる国の言語に影響を及ぼしているようである。もちろん日本語においても、この2つの態がかなりの幅を利かせている。

能動態と受動態というのは、言い換えれば「する」と「される」である。「やりたいからやる/する」と「相手に〇〇された」。能動と受動の対立は、加害と被害の対立関係でもある。したがって、これら2つの態に基づけば、あらゆる言葉は加害状況と被害状況をあらわすものになる。

まさにビジネスの現場での緊迫したやりとりがそれである。

一方、この2つの態に縛られたら、人はけっこう悩み込んでしまうと思う。というのも、相手の言葉は、自分に対する被害と受けとれてしまうからだ。悩み込まないためには、強靭な自尊心が必要になる。自尊心を養うことによって、「する」と「される」の按排(あんばい)を調節することができるようになる。

甥っ子に、「〇〇すんで(「するよ」の関西弁)」と言ったら、「いいよ!」と返ってきた。僕としては「いっしょに〇〇するからおいで」との意味で言ったわけで、返答は求めていなかった。一方、甥っ子からすれば、叔父さんからの許可申請があって、それをボク(甥っ子)は了解し許可した、という構図になっていることに気付いた。「思ったより僕と甥は他人なのか」と違和感をおぼえつつ、あらためて能動態と受動態が今日最強の態であることを感じた。

「する」「される」では支えられない言葉

「する」と「される」で世界がうまくまわっていれば、それでいい。ところが、能動態と受動態をつきつめてみると、支えることのできない言葉が数多くあることが見えてくる。

たとえば動詞の「あやまる(謝る)」だ。「あやまる」を能動態で支えれば「よーし、あやまるぞ!」(謝りたいと思って、謝る)となるし、受動態で支えれば、「お前、謝れよ!」(謝らせたいと思って、謝らす)となる。どちらもどこかおかしい。違和感がある。

そうではなく「あやまる」とは、きっと次のようなことではないだろうか。
まずは、片方の人の心に「申し訳ない」という気持ちがとどまる。そのうえで、その気持ちがもう片方の人の心に映し出されたとき、「あやまる」という言葉は本当の意味で成り立つのだろう。

つまり「あやまる」とは、私が「する」ものでも、相手から「される」ものでもない。お互いのあいだに成立する動詞なのだ。であるから、能動態と受動態のどちらも「あやまる」という動詞を支えきることはできない。

数年前、土下座させる動画投稿が話題になった。動画の制作者は、「あやまる」ことを能動態と受動態のどちらかに押し込もうとした。つまり「あやまる」を片側に押し付けようとしていた。しかし、それでは「あやまる」ことにはならない。「あやまる」は、「する」ものでも「される」ものでもないからである。多くの人が動画を見て違和感を持ったと思う。その原因は、「あやまる」を、支えることのできない態に強引に引きずり込もうとすることにあったのだ。

「あやまる」だけではない。「ありがたい」「惚れる」「偲ぶ」「生きる」「死ぬ」…いずれも能動態と受動態で支えきることはできない。

こうしたことが見えてきたとき、現代人が最も頼りにしている態をもってしても、私たちの身のまわりにある基本的な言葉や行動を支えることすらできないことが浮き上がってくる。

異なる言語態をビジネスの軸に

冒頭で僕がビジネスの場に身を置いて、言葉の伝わり方に苦労していることを述べた。どうも、能動態と受動態の2つの態だけを基本とした会話についていけないようだ。

このことは反対からいえば、(僕がちゃんとした僧侶かどうかは別として…)仏教の言語体系には能動態と受動態の対立が顕われてこないということである。

ならば、次のように問いをたてることができるだろう。

能動と受動ではない態に身を置く者が、ビジネスに参加する意義は何か?

繰り返しになるが、能動態と受動態の対立は、加害状況と被害状況をあらわす。一方、こころゆたかに生き、安心して命の終わりをむかえるための要件を考えたとき、過剰な利益追求や、他人に危害を加えてまで自己利益を守る必要があるかといえば、そうではない。ゆたかに生きるうえで、加害や被害はできるだけ避けたい。

それなのに、現代主流の言語態は、加害や被害を引き起こしやすいものとなっている。

そうした一連の結果として、気候変動問題、格差の問題、生きにくさの問題が出てきているともいえる。この言語態は自と他の違いを強調し、それらを天秤にかけ、利益のある答えを選ぶよう迫るからだ。あるいは自尊心の養成を求めてくる。

コラムの冒頭で、起業家や経営者が仏教的な考え方に深い関心を寄せていることに触れた。そうした経験から感じとるのは、「もしかすると彼らは、これら2つの態とは違う態を探しているのではないだろうか」ということだ。能動態と受動態だけで突き進むことの限界のようなものをどこか感じる。

僧侶がビジネスを始める意義をあらためて問い直すと、おぼろげにその役割が見えてくる。それは、社会が過剰な分断を生んできたことを反省しつつ、それらが生まれにくい仕組み作りに、具体的に貢献することである。能動と受動の対立を背景としない者がビジネスに取り組む意義は、きっとそこにある。

さらに踏み込んで言えば、こうしたアプローチは、能動態と受動態以外の態に支えられた言語体系によって補完されるのではないだろうか。加えて言うならば、それは何も仏教の専売特許ではない。大人と赤子の関係や、片方が深い愛情を置く間柄では、能動と受動の激しい対立は起こりにくい。

台風が去って、雲の合間から太陽の光が差し込んだ。僕に太陽の光が当たっている状態は、「する」でも「される」でもない。太陽の光の中に自分の姿を見出したにすぎない。

こうした気づきを大切に、これからもビジネスコミュニケーションを図ってゆきたい。

本多 真成(ほんだ しんじょう)
1979年生まれ。大阪八尾市の恵光寺住職(浄土真宗本願寺派)。龍谷大学大学院を修了し、私立大学の客員教授をつとめる。院生時代は「環境問題と仏教」の思想史研究。専門は宗教学。TERAEnergy取締役。

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