恋人との日本横断時の寂しさと、新宿徘徊時の寂しさの物量は同じか否か

叶わない恋があった。僕はその人と何度も会い、クリスマスを共に過ごしたいと願い、自分の気持ちを吐露したのだが、彼は僕に対して友達としか見れないと言い放った。胸の奥がズンと痛んだ。LINEを送っては既読になるかチラチラ確認していた。

叶わない恋を久々に経験した後、どのタイミングだったかは忘れたが、とある人に出会った。彼は北海道に住んでいる人で、僕らは北海道で初めましての挨拶を交わし、それから彼の家にしばらく滞在した。

日中から遅くまで飲食店で働く彼に対し、僕は昼過ぎに起きて、海鮮市場で海鮮丼をたらふく食べたり、気が向いたら図書館に行ったりして仕事をした。時間が経過するのを待っていた。特にやることがなかったので、無理やりやることを作った。

彼は食材を抱えて帰ってきた。カレーや肉じゃがなど作ってくれた。優しくて大きな人だった。彼の休みの時、僕らはゲームセンターに出向いた。夜までゲームを楽しみ、それから気分で銭湯などに行った。夜中、寂れたゲイバーに行ったこともある。ゆるやかな日常だった。

彼はちょうど仕事を辞めたいタイミングだったらしく、僕は「辞めたいなら辞めてもいいんじゃない」「一緒に旅でもしようよ」などと無責任なことを言い放った。やがて彼は本当に仕事を辞めてきて、僕らは旅に出かけることになった。北海道を離れる前、彼の母と父に挨拶までした。僕らは気づいたら恋人としてのお付き合いをしていた。

旅に飽きたら東京で同棲しようということで、飽きるまでの旅が始まった。たしか東京で予定があったのですぐに東京に行った気がする。そして千葉、ディズニーランドで2日間豪遊したりもした。ホテルを点々とする日々。まるで逃避行みたいだと思ったし、彼もまた、「本当にこれじゃ逃避行みたいだね」と笑っていた。

飛行機を取って、石垣島にも行った。宮古島には長く滞在していた時期があるが、何気に石垣島は初だった。石垣島に着くと眩しすぎる太陽が僕らを包んだ。目を細めて眉間に皺を寄せた。彼もまた同じような表情だった。

ホテルにチェックインし、海に行ったり、飲みに出たり、ゆるく島での時間を過ごした。フェリーで竹富島や鳩間島にも寄った。水牛の後ろ姿がたくましかった。鳩間島では絶景ビーチの前でBBQをした。島の人たちはみんな真っ黒だった。

石垣島では彼が高熱を発症して早朝から病院に駆け込んだり、僕が急に不整脈を発症して救急車で運ばれたり、どこかおかしなことが連発した。神聖な島だと思う。もしかしたらお盆の時に海に潜ってしまったのが良くなかったのかもしれない。

フライトを延長したりしつつも、なんとか次は大阪に立ち寄った。救急車事件のせいで精神的に不安定だった。ずっと呼吸が浅い。この旅路の終着点はどこなんだろうと考えるようになった。

結局僕らは同棲することはなかったし、帰省して不整脈の治療もあるからということで彼とは物理的距離を置き、最後はお別れをすることになった。彼はいま大阪で再就職し、幸せにそうに暮らしている。繰り返すが、彼ほど優しくて大きな人はなかなかいないとも思う。

でも、旅の途中でずっと僕は寂しさを感じていた。なんの寂しさだったのか、なんの不安感だったのかは分からない。とにかく寂しかった。のどかにドライブをしていても、鳩間島でエメラルドグリーンの海を眺めてる時も、毎秒ごとに寂しさが襲ってきた。

ふと、叶わない恋のことを思い出した。そういえば彼と付き合う前、強烈に好きだった片想い相手がいたなと思った。その人との恋は叶わず、僕はいま別の人と一緒にいる。しかも逃避行をしている。

また、もっと前には長年付き合っていた人がいたことを思い出した。その人とは色々あった後に別れることになった。一生一緒だと思っていたが、あれは幻想だったのかなと思う。世の中、大好きでも別れなきゃいけないことがあることに気づいた。

叶わなかった想い、消えていった好きな人たち。彼らは彼らでいま幸せにやっているのだろう。人は本当に好きな人、本当に愛している人とは付き合えないと言う。果たしてそうなのだろうか。じゃあ一体誰に恋をしたらいいのだろうか。

と、そんなことを、グチャグチャな感情を、逃避行中にたしかに抱えていた。彼と会話をしている時も、ドライブ中の横顔を見ている時も。

最終的に、「好きってなんだっけ?」という状態になっていたのかもしれない。何が何だかよく分からなくなっていた。自分が誰を好きで、誰を愛しているのか。大阪に滞在していた時、彼からの「愛しているよ」に対して「ありがとう」としか返答できなかった自分を今でも覚えている。「僕も愛しているよ」と最後に言ったのはいつだろうか。果たして。

寂しさの正体は心と体と言葉の不一致感なのかもしれない。なんだかよく分からなくて、でもそのことを彼にうまく伝えることもできなくて、ただただ寂しいという想いだけが胸の奥にたまっていった。時間が経てば経つほど、その蓄積を無視することができず、次第に朝から晩まで考えていた。

不整脈の治療と心のケアをして、気づいたら良くなっていたので、あれからまた国内外をふらふらしていた。そしてさっきまでは深夜の新宿を徘徊していたのだが、当時と同じような漠然とした寂しさが襲ってきた。自分は何も持っていなくて、何も成し遂げていないような感覚。自分の周りには大切な人たちがいるはずなのに、全て幻想かのような感覚。およびこれらの得体の知れない寂しさを誰とも共有できない寂しさ。

同時に、ふざけんなよ、負けてられるかよ、という、誰かに中指を立てたくなるような気持ちも。ふざけんなよ、なんで自分ばかりこんな気持ちにならなきゃいけねぇんだよ、やってやるよ、あぁ何度でもやってやるよ、負けてられねぇんだよ、という反骨精神みたいなものが急にできた。寂しいからどうした、寂しいからといって絶対に負けないからな、みたいな。

恋人との日本横断時の寂しさと、新宿徘徊時の寂しさの物量は同じか否か。もしかしたら今の方が寂しさでいうと少し上かもしれない。それはなんでもあるようでなにもない「新宿」という街のせいだろうか。一体なにがトリガーだというのか。

寂しい時は寂しい。叶わなかった恋をいつまでも想ってしまう自分もいる。後悔だらけで、わんわん泣き出したくなる夜もある。唐突に深夜徘徊したくなる日もある。でも、でも、でも、そんな日でも、そんな夜でも、それぞれのシーンでの寂しさの物量とかを考えてしまう時でも、もう負けたくはない。ふざけんな、バカヤロウと宙に言い放ちたい。寂しさに屈してしまったら、白旗をあげてしまったら、もう僕らは寂しさの奴隷になる。中指を立てたい。

寂しさなんて微塵も考えなくなるような、全ての想いが瞬間吹っ飛んでどうでもよくなってしまうような、そんな衝動的で刹那的な人に出会いたい。そしてそんな時間を重ねたい。そしたらようやく、立てたはずの中指は元に戻るのだろう。きっとそうだ。きっと、きっと。

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