初めての体験
「濡れた水着のまま自転車に乗って帰ればいいのよ。」と、彼女は言った。先週金曜日の午後、私達はティールームのテーブルに向かいあって座り、ブルーベリージャムが挟んであるホワイトケーキを等分に分け合いながら紅茶を飲んでいた。その2日前、私は職場からコロナウイルス対策でこれまでの目処だった8月を過ぎてもオフィスには戻らずに自宅勤務が続くことを知らされ少しへこんでいた。皆の健康と安全を確保する為だし、仕事を続けられるのは幸運なのだけれど、とりあえず来春までこの形態が続くらしいというので動揺したのだ。今年の3月の時点では6月中旬くらいには戻れる言っていたのが8月になり、今はどうしてもオフィスで勤務したい人はその旨書類で提出するようにとのことで、基本みんな家から働くのが前提だ。そこまで長期になると思っていなかった私は小さな机に板を被せて面積を拡げたところにディスプレイを2台置くことで何とか作業ができる程度の場所を作りしのいでいた。スタンディングデスクがある職場に比べて快適では無い。なによりも、人に会う機会が無いので英語で話す能力が急速に衰えて来ているのを感じる。そういう事をあれこれ考えながら2、3日低空飛行で過ごした。
「今日空いている時間があったらティーブレイクを一緒にしない?お茶をご馳走するわよ。」と金曜日の朝、気分転換のために少し年上のアメリカ人の友達にテキストを送ってみた。「良いわよ。11時に用があるけどそれが終われば空いてるから。」ダウンタウンのティールームには私が先に着いて、しばらくして友達が上機嫌でお店に入って来た。「今朝市民プールのシーズンパスを買って来たの。COVID-19で開園が遅れたけど明日オープンするから。」彼女の話によれば、ウォーターパークの開園時間は正午だが、毎朝11時から12時まで流れるプールを水中ウォークするアクテビティがあるのだそうだ。それならば混んでいないし屋外だからリスクも少なそうだと週2回ほど仕事のない日に歩く事にしたという。「私も歩いてみようかな。」この町に20年以上住んでいるがウォーターパークに行ったことが無かった。「着替えはどうしよう。行きは家から水着を着ていくとしても帰りは更衣室を使うの大丈夫かな。」との私の呟きに冒頭に書いた通り友達は水着のまま自転車で往復すればいいのだと言った。
小学生の時でさえ濡れた水着のまま自転車に乗ったことなど1度も無かった。お金も携帯も時計も持たずに水着で自転車に乗り、流れるプールに身をまかせて歩く、という事を考えただけでなんだかぱあッと目の前が明るくなった気がした。最近のモットーはあまり深く考えずにまずやってみよう、だ。”Spontaneity” 、何かが急に変わっても流れに乗って身軽に対応する、のが私は苦手だ。だからこそまずやってみる体験を増やしたい。どっちにしたってここの夏は短い。いつだってあっという間に秋が来るのだ。プールの閉園は8月初旬。その時になったらまた別の事をしよう。
そして昨日、はじめてそれを実行した。水着のままと言っても上にTシャツとスコートを着て自転車に乗る。プールに着くと快晴の空の下でシニアレディー達がサングラスや帽子をつけたままぐるぐる流れるプールの中を歩いていた。中には流れに逆行して歩く強者もいる。私もスロープからそろそろと水に入り仲間に加わる。想像していたよりも水位は浅くてお腹くらいの深さだ。1時間友達と話しながら歩き、水から上がると急に身体が重く感じられた。そしてそのままタオルで大まかに水を拭き取ったあとシャツとスコートを着けて自転車で帰宅。さっとシャワーを浴びて午後の仕事に戻った。身体が思いきりリラックスしたようで職場のことであれこれ思いあぐねていたのがピタリと止まった。