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【遺書】落とし物を拾いに行って参ります

(2022年に自殺を試みる直前に書いたものです、今読むと滑稽ですね。)

人はなぜ死ぬのに生きるのか。死んだらどこへ行くのか。
考えても解には辿り着かず、辿り着かないどころか遠ざかるばかりなのにその解を求めて同じ場所をぐるぐる回って、いい歳して自分の愚かさに気付けず、気付いても目を背けている。ちびくろサンボのトラたちが回ってバターになるように価値のあるものにすらなれない。ただ回っている場所だけとって、それを見るものの気を狂わせるばかり。これのどこに価値を見出せというのか。いや、価値のないものに価値を見出すのが私の使命ではなかったのか。いつからそれを忘れてしまったのか。何が忘れさせたのか。また、こうして自分の外に原因を擦り付けている。原因は自分の中にしかないというのに。いつまでたっても他人のせいにして、幻想を見つめてそこから目を離そうとしないで、その眩しさに目が眩んで、眩しいならサングラスをかけるか見つめるのを諦めればいいのに、余計な拘りを発揮して迂回路を見なかったことにする。いつもいつも自分の怠惰さを反省するのにいつもいつも同じ過ちを繰り返してそれでも人間だというのか。人間というのも大したもんではないなあ。そろそろ無意味にもほどがあるこの回転に終止符を打たねばならぬ。ようやくその時が来たのだ。物事は時と場所が肝要である。立派な誰かがそう言っていたわけではない。この凡人にもその肝要さは漠然と理解できるのだ。こうしてたいそうなことをまたそれっぽく言っている自分に泥酔しているとあの人は嗤うのだろう。嗤うがいい。もうその後のことは私には関係がないことなのだ。嗤おうが泣こうが叫ぼうが黙ろうが知ったこっちゃないのだ。己の我儘さに吐き気がするがこれも関係のないことである。嗤え嗤え。嗤うとストレス対抗ホルモンというものが出るらしい。おお、無価値な己が価値を生み出せているではないか。人間捨てたもんじゃないなあ。とはいっても、我の意思は揺らがぬ。要らぬところに拘りと意志の強さを発揮する。これを他の事に活かせたのならまた違ったであろう。しかし、我の脳みそでは及ばなかったのである。
さあ、無価値な人間に価値のある文章の終わらせ方なんぞ分かるはずがない。ここで私のここ数日の死生観をお話しさせて頂くとしよう。
物事、実体があるものよりないものの方が有難みがあるということにようやく気付いたのだ。釈迦やイエス・キリストが目の前に実体を伴って現れるよりも、概念として我々の脳みその中に存在する方が有難いのではないだろうか。それならば、我も概念になりたい。概念になれば無価値な人間も少しは価値のあるものへ昇華できるのではないだろうか。本来私だって価値のある人間であったはずだ。しかし、それを道中で落としてきてしまったのだ。もはや、価値を持っていたのかさえ怪しくなり始めている。それを証明できるのは自分しかいないというのに。だから価値を取り戻しに行くのだ。そんな遠くへは行かぬ。ちょいと来た道を折り返してみるだけさ。なあに、すぐに戻ってくる。そう怖がるな。私だってそんなに度胸のある人間ではない。むしろ臆病なのだ。だからこうして、落とし物を探しに引き返しているのではないか。度胸のある人間は、この先でいくらでも見つかるさ、と前へ前へと進むものである。私は知っている実に安全が確保された道を普通に歩いたり逆立ちしてみたり這いつくばってみたりその程度のことしかできない人間なのだ。そのことをよおく覚えておくがいい。君もいつかそのことに気付くだろう。指標としていたものがいかに無価値で当てずっぽうな、なんの役にも立たないものであることを。まあそれも人間の頭の使いようによっては役立つらしい。何度も言うが生憎私にはそれが分からなかった。
ここで戯言をぐだぐだと言っていても仕方がない。ささと用を済まさねばならぬ。それでは皆さん、またいつか。


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